存在しないもの

 

 

 

 

雨、のち晴れ。18度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・トマト・ブロッコリー・チーズ・バジル・カニカマ)、味噌汁(小松菜・豆腐・油揚げ・玉葱・人参)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
別の時計修理屋から届いた梱包キットに岳父の時計とぼくが30年ほど前まで使っていたセイコーとシチズンのクォーツ時計をそれぞれ1個ずつ入れて送る。岳父の時計はセカンドオピニオンというやつだが、ダメもとではある。クォーツ時計はどちらも中古市場で人気らしい。もとよりクォーツ時計が直ったとしても使うつもりはない。電池で時を刻むなんてあり得ないではないか。時は、ぼくらが作ったもっともまやかしに満ちた概念かもしれないが、それでもなににも増してぼくらの暮らしに溶け込んですべての基礎を圧倒的な力で統率している。
ただでさえ信じられないのに、その力をいや増す方へと舵を切ることに加担できようか。と、妙に力んだりも。
昼餉は、菓子パン、コーヒー、イチゴ。
ヒトという種族だけが、時を競う。それは歴史という過去帳に綴られていく。誰もが歴史を紐解く。そして書かれていることを大事にせよと教えられる。時は社会という体系の礎なのだと。
だが、誰も時とはどういうものか、教わった覚えはない。その成り立ちとか、絶対性の根拠についてわかっていることはない。でも、正確な時は決め事として存在している。

この世は、摩訶不思議で成り立っている。
夕餉は、納豆、冷奴、ほうれん草のお浸し、蕪とエビ・カニカマの餡かけ、魚ハンバーグ、味噌汁(サヤエンドウ・小松菜・水餃子・玉葱・豆腐・油揚げ)、玄米ご飯、赤ワイン。

 

 

 

 

 

 

 

羞恥とか、側頭部に開いた小さな穴とか

 

 

 


曇り、のち雨。21度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・トマト・キュウリ・ブロッコリー・トマト・チーズ・バジル)、味噌汁(豆腐・油揚げ・玉葱・人参・小松菜)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
妻はクワイアの稽古へ。夜遅くに帰る。
ジョギング、5.9キロメートル。最大心拍数143bpm、最高速度9.2kph。
メカニカル・キーボードの打鍵ミスはわずか2センチメートルほどの段差を解消するだけで変わる。劇的というのはややオーバーだと思う。だがそう言ってみたい気分だ。本来ならパームレストを使うところだが、その代わりにキーボードを思いきり手前に傾ける。キーボードの段差がそれで消える。それだけのことを針小棒大に書いている。恥ずかしい、実に。
昼餉は、ブルーベリージャムのサンドイッチ、ミルク、コーヒー。
本が届く。A・E・ホッチナー著『パパ・ヘミングウェイ 上(原題:PAPA HEMINGUWAY)』(ハヤカワ文庫)。35年前の初版。どれくらい版を重ねたのかわからないけれど、そもそも今頃求めるぼくのような周回遅れを版元は書店常備して待ってはいられない。ホッチナーに気づくのが遅れてしまいすみません。
夕餉は、醤油ラーメン、おにぎり、赤ワイン、チーズスナック。
水を飲まないと脚が攣る。猛烈な痛みにソファから飛び上がる。ジョギングのあとに飲み忘れると身体はすぐ訴えてくる。身体よ、と語りかけたい衝動につい負けてしまう。おまえくらい正直者はいないよな。必要以上に我慢はしない。良い子ぶらないし、この世でなにが大切かを決して間違わない。優先順位を決して見誤らない。だからぼくは、おまえに忠実であろうと思うし、その声を決して聞き漏らしたりしないよう、耳の穴をかっぽじっている。この場合の耳の穴とは、側頭部に開いた小さな穴だけとはもちろん限らない……。
AppleはiOSとiPadOSの開発者バージョンのRCをリリースした。iPad関連の新製品も発表している。
LINNがDSM用OSであるDsDavaarの開発者バージョンをアップデートしている。Davaar107のBuildは539 (4.107.539)。DSDの再生を妨げるクラッシュの修正やリモコンのスターキーの長押しをマップするホットキー オプション追加など多岐にわたっているものの、ぼくのDSMに関係するものはほとんどない。

 

 

 

 

 

 

 

変調と白シャツ

 

 

 

 

雨、のち曇り。20度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・ブロッコリー・大豆煮・チーズ・バジル)、味噌汁(ナメコ・厚揚げ・小松菜・玉葱・人参)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
目が痒い。くしゃみとともに鼻水が止まらない。花粉症ではないらしい。料理中とかベッドで本を読んでいるときが危ない。犯人はあんがい己れのなかにいるのかもしれない。アレルギーのようなものとか。気にせず暮らしていればと、無頓着を装っていても回復する兆しが見えない。羽が生えたように目薬とティッシュペーパーが消えていく。
昼餉は、ラスク、コーヒー。
リネンの白シャツがこの時期のユニフォームといっていい。年を重ねるほどに肌触りが良くなる。ブロードの白シャツも合間に着る。しわしわでクタクタ。それがいい。パブロ・ピカソは年中セントジェームズのウェッソンを着ていた。彼のユニフォームといっていい。南仏あたりはウェッソンがちょうどいいのだろう。
この国ではウェッソンは4月と10月くらいしか着られない。リネンの白シャツはその点、もうちょっといける。
夕餉は、冷奴、マカロニサラダ、豆腐とほうれん草の白和え、ホッケの開き焼き、味噌汁(玉葱・人参・油揚げ・厚揚げ・小松菜)、玄米ご飯、赤ワイン。食後にチョコアイス、コーヒー。

 

 

 

 

 

 

 

それっきり、という日のこと

 

 

 

 

晴れ、のち曇り。23度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・トマト・キュウリ・チーズ・バジル)、味噌汁(サヤエンドウ・ナメコ・豆腐・油揚げ・玉葱・人参)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
8枚切りくらいの食パンの耳をたくさん買い込んで、フライパンでラスクを作る。心を虚しゅうして、焦がさないように。仕上げに砂糖をパラパラかけて、もうひと煎りさせるとキャラメル色になる。
気持ちが悪くなるくらい食べてしまい、妻が後悔している。
昼餉は、菓子パン、ラスク、コーヒー。
ジョギング、6.87キロメートル。最大心拍数131bpm、最大速度8.8kph。
心拍数の推移を見ていると感動する。ずっと休みなしに動いている心臓のことが愛おしくなる。寝てる間も動いている。ちょっと動かずにいるなんてことはないんだよね? たまに休みたいとも思わずに? 真夜中とかにちょっととか……。ぼくらはしっかり休んでいるよ。キミが動いているというのに。すっかり任せてしまって。
ある日、ぼくらはそのまま眠りつづけることがあるんだよね、きっと。そのときにキミの偉大さを再確認することもできないんだろうな。
夕餉は、納豆、ブロッコリー、味噌汁(ナメコ・キャベツ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玉子丼、赤ワイン。食後にコーヒー、ラスク。

 

 

 

 

 

 

 

分け隔てのない教え

 

 

 


晴れ。28度。
7時に起きる。
朝餉は、バナナ、サラダ(レタス・キャベツ・トマト・キュウリ・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(ナメコ・サヤエンドウ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・キャベツ)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
『ものまね鳥を殺すのは』より抜粋——

 彼女が横目で私を見下ろすと、その目のまわりの小さな皺が深くなった。「あたしたちと同じ食べ方をしねえ人もいるんだよ」と彼女は鋭い囁き声で言った。「でも、同じ食べ方をしねえからって、その人たちに突っかかるんじゃねえ。あん子はおめえの客なんだから、テーブルクロスを食べたがったら、食べさせてあげるんだ。わかったけ?」
「客じゃないわよ、カル。ただのカニングハムだわ——」
「黙んなっせ! その人が誰かなんて関係ねえ。この家に足を踏み入れた人はみんな客だよ。だからもう二度と、その人たちの食べ方について、あんなふうに偉そうな口をたたくんじゃねえ! おめえの家族はカニングハムよりいい家柄かもしれねえが、あんなふうに人を侮辱してるようじゃ、そんなこと何の意味もねえ。テーブルでの食事にふさわしい振る舞いができねえんだったら、ここに座って、キッチンで食べなっせ!」
 カルパーニアは私の背中をピシャリと叩いて、自在ドアからダイニングへと押しこんだ。私は自分の皿を持って引き返すと、キッチンで昼食を終えた。彼らともう一度顔を合わすという屈辱を味わわずに済んだのはありがたかった。

昼餉は、菓子パン、コーヒー。
教育を受けた黒人の女中であるカルパーニアが、主人公の不躾に対して説教をするこの光景がいい。彼女は怒ると文法そっちのけの言葉がつい出てしまう。だがそこには、他者への敬意を教える場合の分け隔てのなさが描かれている。ちなみに、主人公は小学一年生ですでに読み書きができることを若い女教師から叱責されている。お父さんにもう教えないでほしいと伝えなさい、おかしな癖がついてしまうからと。父のアティカスは弁護士の仕事が忙しくて娘の読み書きどころではない。主人公に書くことを教えたのは女中のカルパーニアなのだ。物語は、ここから少しずつ動き始めていく。
夕餉は、納豆、冷奴、ちくわの磯辺揚げとキャベツを添えたアジフライ、味噌汁(ナメコ・サヤエンドウ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玉子丼、ビール。食後にコーヒー、ラスク。

 

 

 

 

 

 

 

歳をとって彼は……

 

 

 


晴れ。27度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・キュウリ・トマト・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(サツマイモ・サヤエンドウ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
掌中の物事に目を向けないという悪いクセがある。たまたまそこにあるというだけで、己れの所有するところとなったわけではない。掌を目の高さに持っていって、じっくりとその物事を観察する。ためつすがめつして、ああでもないこうでもないと眺めてはたっぷり時間を費やす。なにぶん初めてなもので、とか言い訳をたくさんしながらさらに叩いたり振ってみたりもする。少しずつ、ちょっとずつ。
それでやっとわかりかけてくる。すべての物事との距離感のことは、そうなのだと思う。だがしかし、ぼくは掌中の物事はすでに己れのものだと勘違いしてきた。時間をかけることを端折ってしまった。
昼餉は、中華スープ、焼きそば、コーヒー。
ジョギング、7.41キロメートル。最大心拍数148bpm、最高速度11.1kph。
悪いクセによって、たくさんの失敗をし後悔をしてきた。今もそれは続いている。ほかの人はどうなのだろうという目で誰かを観察したことはないけれど、あいつは鈍臭いという目で誰かを見てはいなかったかと思う。その彼(彼女)が、物事に費やす時間や距離のことを今さらのように問い直している。
年とともに、ぼくは頭が低くなる。そして、畏れを抱く。耳をそばだてる。足元を見つめる。それでもなお、自分はなにかを忘れてはいないかと気が気でない。歳を取るということは、ぼくにかんするかぎり、そういうことなのだと思う。
夕餉は、冷奴、マカロニサラダ、卵焼きを添えたピーマンの肉挟み焼き、味噌汁(ナメコ・キャベツ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玄米ご飯、赤ワイン。食後にコーヒー、餡子の団子。

妻と観たのは山崎貴監督『ゴジラ-1.0』。アカデミー賞の視覚効果賞を取ったばかりだが、もうストリーミングで見られる。そもそも荒唐無稽の生き物が主人公なのだから演出云々ではないのだが、戦後の悲壮感をゴジラとリンクさせないという監督の決意は伝わってくる。15億円で完成させたことがアカデミーでは大きなインパクトだったと伝え聞く。戦争の悲惨さは、ゴジラの比ではない。それが伝わってこないのは、監督が戦争を体験していないからだと言うことは簡単なことだ。

 

 

 

 

 

 

 

8キロほどの思索

 

 

 

 

晴れ。23度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・キュウリ・トマト・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(サヤエンドウ・小松菜・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
連休も後半の数日となり、あちこちで混雑が報じられている。妻がちょっと歩いてくると言う。ならば付き合おうということになり、帽子をかぶりリュックを背負った。普段は目指さない方角へ足が向く。彼方に見える木々の緑を目指して。
昼餉は、フードコートで菓子パン、柏餅、コーヒー。
3時間ほど歩いて、帰りは電車に乗った。二人して無口になるほどには歩いたけれど、仲違いをしたわけではない。歩いていると、どうしても考えているのだ。あれこれと。それが同じことならさぞかし驚くだろうけれど。
ぼくらが恋人たちだった頃なら、そういうことは奇跡でもドラマでもなかっただろう。若さは若さなりに、老いては老いてなりに。ふさわしいことが起きるのだと思いながら玄関口に立っていた。
夕餉は、豆腐、きんぴらごぼう、サツマイモの甘煮、マカロニサラダ、焼売、味噌汁(ナメコ・小松菜・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玄米ご飯、ビール。

 

 

 

 

 

 

見えないままの変化

 

 

 

 

晴れ。20度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(キャベツ・キュウリ・バジル・カニカマ)、卵焼き、味噌汁(小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
時計修理屋に預けておいた岳父の腕時計が戻ってくる。オーバーホールだけに費やす予算が足りない。
ジャン=フィリップ・コラールでフォーレの舟唄を聴いている。フランス人でなければ味わえないタッチ。これはもう仕方ないことかと思う。
昼餉は、菓子パン、コーヒー。
ジョギング、5.36キロメートル。最大心拍数149bpm、最高速度9.9kph。
図書館へ取り寄せの受け取りに。ハーパー・リー著、上岡伸雄訳『ものまね鳥を殺すのは(原題:To kill a mockingbird)』(早川書房)。
上岡さんはこの小説になみなみならぬものを抱かれている。それはあとがきにも詳しいけれど、それを差し引いても翻訳の正確さと文体の選び方に達意のワザを感じる。いよいよ訪れた機会を捉えるとき、人は知らぬ間に力が入るものだけれど、彼はそれをかわしつつ己れの滋味を行間に込めている。達者なお仕事だと感じ入る。
夕餉は、納豆、サツマイモの甘露煮、きんぴらごぼう、サヤエンドウと小松菜を添えたタラのバターレモン風味のムニエル、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玄米ご飯、赤ワイン。食後にコーヒー、プリン。
ハーパー・リーの『さあ、見張りを立てよ』もそうだが、新刊書店にはもう在庫がない。版元は刷りたいのだろうけれど、この国の読書人はそれより少ないらしい。古書(といってもそんなに古くないのだが)の値が新刊より高くなっているのを見ると複雑な気分になる。
翻訳書籍の市場は曲がり角にきたままずいぶん時間が経っている。

 

 

 

 

 

 

伴走者の目

 

 

 

雨。20度。
6時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(キャベツ・キュウリ・マカロニサラダ・バジル・カニカマ)、味噌汁(ジャガイモ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・小松菜)、卵焼きのトーストサンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
時を撫でるような雨音。あの時の悔やまれてならないことも、ともに流れてくれるわけではない。ただ這い寄っては立ち去っていく雨音。鳥たちが軒先に集う。
昼餉は、コンソメスープ、ホットケーキ、コーヒー。
苦しみのひとつもあればいい。それはのっぺりとした地平に陰影に富んだ起伏をもたらす。忘れてはならないことを思いおこさせてくれる。どんな苦しみの記憶も身を滅ぼしかねない。ひとつひとつが身を焼こうとする。
いつもこの身を見つめている伴走者のようだ。こちらがその存在を忘れようとも、苦しみが目を逸らすことはない。そんなに我が身に寄り添ってくれるものは、ほかにはない。
苦しみは、人生の伴走者なのだ。
妻の作った夕餉は、枝豆豆腐の冷奴、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・人参)、いなり寿司、赤ワイン。
AppleはOS群の開発者バージョンを更新してβ4をリリースした。ちなみにmacOSのバージョン14.4はApple IDが勝手にリセットされるというようなバグが喧伝されている。もとい、それがOSに起因しているのかわかっていない。

 

 

 

 

 

 

HookerのSwamp

 

 

 

雨、のち曇り。22度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・ブロッコリー・チーズ・バジル)、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・小松菜・玉葱・人参)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
おかしな気分の4月だったが、それがなんによるものかわからない。大事なことがかたわらを静かに動いているというのに、それに気づいていない。うまく言い表せないが、どこかそんな感じもある。
ガブリエル・フォーレのピアノ独奏曲全集をルカ・ドゥバルグの演奏で聴いている。フォーレは没後百年だという。知らなかった。
昼餉は、菓子パン、コーヒー。
古書が届く。リチャード・フッカー著、村社伸訳『マッシュ(原題:MASH)』(角川文庫)。54年前の文庫本は翻訳物で300円。すっかり焼けていてみすぼらしい本が送料込みで460円。映画もテレビドラマ版もこの原作は大ヒットしたのだが、ぼくは本を読んでから映像へ流れたくちだ。当時の反戦文学では『キャッチ=22』と双璧をなした小説は、ロバート・アルトマン監督がドナルド・サザーランドやエリオット・グールド、サリー・ケラーマンによってブラック・コメディとして忘れ得ぬものとなった。’70年代のアルトマンは飛ぶ鳥を落とす勢いだったように見える。『ギャンブラー』(’70年)、『ロング・グッドバイ』(’73年)、『ナッシュビル』(’75年)、『ビッグ・アメリカン』(’76年)と名作と呼ばれる作品を撮っている。もっとも世の評価が定まりはじめたのはずっと後のことで、群像劇としての軽妙なタッチが興行的な成功になかなか繋がらなかった。エリオット・グールドはアルトマン監督によって’70年代のアイコンになったと思う。
なんにせよ、ぼくはこの小説を何度となく読み返している。なぜなのか今となっては謎である。ニュージャージー州トレントンに生まれた原作者は朝鮮戦争に従軍した外科医だ。彼が描いた外科医たちとそのまわりに集う人々の生態は米国で一大ブームとなり、原作は15冊が刊行されている。もう一度読むとしたら『キャッチ22』とともにだろう。なぜ、読み返そうと思ったのか、そのあたりのことも深い霧の中ではある。
物価のことはあるだろうが、それにしても320ページ超の小説が300円だった昔、本屋はどこの街のどの通りにもあって買っては読みしていた。今となっては、異なる星系のまったく違う惑星のことのように思える。
夕餉は、枝豆豆腐の冷奴、マカロニサラダ、コンニャクの甘辛煮、鶏ひき肉と豆腐のハンバーグ、味噌汁(ネギ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玄米ご飯、赤ワイン。食後にコーヒー、プリン。

今月の総括をば。アクティビティは8日。総距離は51.34キロメートル。スクワット25回はほぼ毎日。

 

 

 



 

 

 

 

 

ぼくらが舐められていようとも

 

 

 

 

晴れ、のち曇り。27度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・キュウリ・チーズ・ブロッコリー・バジル)、味噌汁(シメジ・ブロッコリー・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
ペンギン・ランダムハウスの新刊案内メールを眺めていたら、ペンギンのハードカヴァー・クラシックシリーズにプーシキンの短編集『スペードの女王』が加わったという案内あり。布装の意匠はコラリー・ビックフォード=スミス氏の見事な図柄。同シリーズはこれで14タイトルになるが、ロシア文学が要を占めているのは言うに及ばず。洋の東西を問わず出版は不振だが、一部の好事家のためにこうした書籍が作れられている。この国では村上春樹の新刊が装丁本になる。新刊が彼の代表作に相応しいのかわからない。ちなみに、彼はまだ生きている。
本棚の文学全集を調べると、プーシキンはツルゲーネフとともに20巻目に収められている。『スペードの女王』は藤井一行訳で、『大尉の娘』や『エフゲーニイ・オネーギン』の金子幸彦訳が前後を挟んでいた。ツルゲーネフは言わずもがなの『父と子』である。プーシキンのロシアにおける地位は動かし難い。それはこの国における二葉亭四迷の果たした役割にたとえることができようか。翻訳ではそのあたりが想像できない。
昼餉は、中華スープ、焼きそば、コーヒー。
衆議院の補欠選挙で立憲民主党が3議席とも得ている。もちろんみずからの手腕ではない。自民党に愛想が尽きたのか、島根1区がニュースになっている。共産党票の功績を立憲は言葉にできない。維新といい都民ファーストといい、野党はことごとく読み違えている。自民党は最初から諦めており候補さえ立てない。
投票率が50%を超えない国政選挙を民意とみなすのは違憲ではなかろうか。
夕餉は、冷奴、マカロニサラダ、鶏ひき肉の大葉巻きハンバーグ、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・小松菜・人参・玉葱)、玄米ご飯、赤ワイン。

 

 

 

 

 

 

 

革は蜜蝋を食べる

 

 

 

 

晴れ。28度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたイチゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・キュウリ・チーズ・バジル)、ハムと目玉焼き、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・小松菜)、ブルーベリージャムのトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
NHKの将棋と囲碁トーナメント。聞き手の女性が、AIの勧める候補の挿し手の意味がわからないという。AIと勝負したらひとたまりもないだろう。なぜなの?と問わないかぎり将棋のほんとうの姿はわからない。
昼餉は、かき揚げとざる蕎麦、ルイボスティー。
ジョギング、8.54キロメートル。最大心拍数148bpm、最大速度8.7kph。
INODA+SVEJEの椅子に塗り込む蜜蝋ワックスを、ついでだからと財布や手帳の革にも塗ったところ艶がよみがえる。Somes Saddleの財布もHermesの手帖も革が落ちついた。書斎館で求めた牛革のメモ帳にも塗りこんだ。Church’sやLloydの革靴にもと気づいたものの、まじめに取り組むと半日仕事になる。もうすこし温度の低い日が好ましいのだけれど。革にとって蜜蝋はご飯のようなものだと思う。断食させていたようですみませんと謝っている。
夕餉は、妻の作ったカレードリア、ウィスキー・オンザロック。食後にミルクをかけたコーヒーゼリーとイチゴ、コーヒー。

 

 

 

 

 

 

 

草彅剛という声

 

 

 

 

雨、のち曇り。22度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・キュウリ・チーズ・ラディッシュ)、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
古書が届く。幸田文著『幸田文全集 第十一巻』(岩波書店)、同第十六巻。この全集が放つ芳しさは言葉にできない。読むかどうかも定かではないのに手許に置いておきたい衝動に駆られるのは、その物理的な存在のなせるわざではある。函に収まった布装丁の書籍が作り続けられる確証はどこにもない。そういう工房はあと10年も経たないうちに絶えてしまうだろう。どこかの誰かが孤軍の道へ歩み出さない限り廃れるのだ。
妻はアルバイトの面接へ。昔取った杵柄は、果たして通用するものか。
妻はミニトマトの苗も求めてきた。ぼくがそのことで質問するとぶっきらぼうに答える。夫と共有する感情などないという感じに聞こえるのは、こちらの問題だろうか。
昼餉は、妻が昨夜買ってきた食パンの耳で作ったラスク、コーヒー。
マッカーシー著『ステラ・マリス』より——

 (前略)詩句はそれ自身の実体だけは持っているけれど歴史的な出来事は——個人的な歴史も含めて——実体をまったく持たない。歴史的事実の実体は痕跡を残さず消えてしまっている。わたしの経験から言うと記憶力の弱い人たちは誰よりも強く自分の記憶が正しいと言おうとするのね。
 きみの世界は今でも相当込み合っているだろうね。
 込み合っている。すべてを歓迎しているわけじゃない。何を迎え入れるかについては慎重になる必要がある。でもわたしはそれを変えようとは思わない。わたしはプラトンから絶対に逃げられない。あるいはカントからも。わたしはヴィトゲンシュタインを同時代的な存在だとみなしている。研究者仲間と。フッサールには恋をした。彼は数学者だったからわたしは信頼している。フライブルク大学の教授として若い研究者だったマルティン・ハイデガーを受け入れて指導し庇護者になったけれどその後ナチスが政権をとってフッサールを大学から追放するとなったときハイデガーはそうだそれが正しいと言った。フッサールは研究室を引き払って自宅にこもりそこで泣き暮らして死んだけれどハイデガーは師の後釜にすわった。ということでわたしたちに残された問題は哲学探究の基盤に人間的な高潔さがなくてもいいのなら哲学の目的とは何なのかということになると思う。ヴィトゲンシュタインは一生のあいだ自分の魂の状態のことで苦悶した。その種の問題はハイデガーの頭には一度も浮かばなかったみたい。(後略)

前段でマッカーシーは主人公に「詩句はそれ自身の実体だけは持っているけれど歴史的な出来事は——個人的な歴史も含めて——実体をまったく持たない」と言わせる。それ以後の記述は、まさに真逆を書いている。主人公の少女が平気で嘘をつくから気をつけてねと言う。これもそうしたロジックの上に成り立っている会話だ。
夕餉は、ヒジキ煮、妻の作ったコーンスープ、カレーの残り、ウィスキー・オンザロック。食後にアイスクリームとヨーグルトをかけたイチゴ、コーヒー。
妻とNetflixを観る。内田英治監督『ミッドナイトスワン』。主演の草彅剛さんは、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞をとっている。作品賞と新人賞もだ。それに相応しい内容と描き方だった。草彅さんの声には抑揚がない。普段の喋り方にもどこか無機質な響きがある。感情移入たっぷりの話し方や言い回しにどっぷりの現代にあっては、天国からの声のようにさえ聞こえる。

 

 

 

 

 

 

重量級の対話編

 

 

 

 

晴れ。24度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・コーン・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、たまごトーストサンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
時計修理師より電話。岳父の腕時計の修理部品のことなど話す。「蓋押さえ」なるリューズ周りの小さな部品はもう手に入らないかもしれない。壊れやすい部品らしく、必要とする方がぼくのほかにもいらっしゃる。ならばということで、ぼくは修理を辞退した。岳父の腕時計は、ほかにも交換部品がない部位が壊れる可能性と同居している。そのリスクに同意して修理するのは、ある種の博打ではある。修理師さんの説明はおおむねそういう趣旨だった。
マッカーシー著『ステラ・マリス』より——

 今のだと精神病院はその施設自体が精神増強に役立つと言ってくれているように思えるからね。なんだろう。教会が邪悪な霊を遠ざけてくれるようなものかな。
 その比喩はそこそこ的確だと思う。教会は罪人のことばかり話す。救われた人たちのことはほとんど言及されない。悪魔が関心を持つのは完全に霊的なことばかりだと誰かが言っている。チェスタトンだったと思うけれど。
 悪魔は人間の魂にだけ関心がある。魂に関係のない幸福のことはどうでもいい。
 興味深いね。きみの訪問者たちだけど。何者なのかはともかくとして、彼らについて何かぼくに話してもらえることはあるかな。
 その質問にはどう答えたらいいかわからない。知りたいことは何なの。
 彼らに名前はある?
 名前がある人なんていない。暗闇のなかでも見つけられるようにこちらから名前をつけるの。わたしのファイルを読んだと思うけど優秀な医者はみんな幻覚として現われる人物たちの描写にはほとんど注意を払わないのね。
 きみにはどれくらいリアルに感じられるの。彼らはなんだろう。夢のような質感があるのかな。
 そうじゃないと思う。夢に出てくる人たちには一貫性がない。断片が現われるだけでかけてる部分はこちらが埋めるでしょ。眼の盲点に入って見えない部分みたいに。彼らには連続性がない。別の存在に変わってしまったりする。もちろん彼らを取り囲む風景は夢の風景だし。

昼餉は、菓子パン、コーヒー。
ジョギング、8.19キロメートル。最大心拍数は150 bpm。最高速度は11.6 kph。Tシャツ&短パンで。
『ステラ・マリス』より——

 世界には喜びが少ししかないということは単なる物の見方の問題じゃない。どんな善意も疑わしいの。あなたが最後に悟るのは世界はあなたのことなんか考えていないってこと。考えたことがないってことよ。
 ほとんどの人は与えられた日々を何か絶望とは別の状態でなんとか生きているわけだけど。
 ええ、そうね。
 もしきみが世界について何か決定的なことを一文で言わなければならないとしたらどういう一文になる?
 それはこうよ。世界は破壊するつもりのない生命を一つたりとも創造したことがない。
 それは本当だろうね。するとどうなんだろう。世界が考えていることはそれだけだろうか。
 世界にここがあるならばその心はわたしたちが思っているよりずっと酷いものね。
 心があるだろうか。あるとしてそんなに酷いものだろうか。

短い小説なのに『過ぎ去りし者』より重い。
夕餉は、ヒジキ煮、妻の作った味噌汁と鶏ひき肉カレー、ウィスキー・オンザロック。食後に煎餅、ルイボスティー。

 

 

 

 

 

 

 

 

答えのない相応しさ

 

 

 

 

晴れ。25度。
6時に起きて、妻と散歩。4キロほど。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・コーン・キュウリ・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・ネギ)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
岳父の腕時計の修理見積もりが届く。思ったよりはるかにかかる。それは相応しいものだろうか。ぼくという存在のこと、一度も相見えることのなかった岳父のことをぼんやり思って放心している。
昼餉は、フードコートで豆とチーズのパン、お茶。
図書館に寄る。取り寄せた本を受け取る。コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳『ステラ・マリス(原題:Stella Maris)』(早川書房)。これが遺作である。聖母の添え名が付いた精神病院「ステラ・マリス」での会話劇は数学についての考察が周縁にある。借りたのはぼくが最初らしい。版元はこれを2500部も刷ったろうか。いや、もっと少ないかもしれない。本来なら買うべきだ。義侠のような疼きが今も囁き続けている。遺作2冊をこの早さで翻訳した黒原さんの日々も思う。それに報いる方法はひとつしかない。
岳父の腕時計と書籍は本来、秤にかからないものなのに。
夕餉は、ヒジキ煮、納豆、キャベツのオリーブオイルサラダ、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・ネギ・人参・玉葱)、ラディッシュの葉の胡麻和えとラディッシュの一夜漬けを添えた鰤の照り焼き、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後にイチゴとアイスクリーム、コーヒー。