マッカーシーの遺作と黒原敏行さん

 

 

 

 

 

晴れ。11度。冷たい風。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・チーズ・カニカマ・バジル)、スクランブルエッグ、味噌汁(ナメコ・シメジ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、チーズをのせたバゲットのトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
昨日までの陽気はどこへやら。
甲子園の春の高校野球が始まる。妻の故郷の近江高校は早々に敗退。
近所に救急車がけっこうな頻度で来るようになった。あちらこちらで老人が生死の境をさまよっている。札幌の父のことを思い起こす。姉はなんども救急車に同乗した。ぼくも一度か二度。
昼餉は、菓子パン、コーヒー。
予約しておいた新刊が届く。コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳『通り過ぎゆく者(原題:The Passenger)』(早川書房)。550ページを超えるとはいえ値段は4180円。マッカーシーの日本における読者数がうかがい知れる。黒原さんの翻訳にぼくはずっと感服してきた。著者の文体は独特で言葉の使い方も異彩を放っている。黒原さんはそれを見事に和訳されてきた。国境3部作でどれほど感嘆したことだろう。早川書房は遺作の2冊を刊行するにあたって悩んだに違いない。改行のほとんどない文章、カギ括弧のない会話、乾いていて比喩のほとんどない情景描写など、ないない尽くしと言っていい。読むなと言われているような気持ちにさえなる。だが、そこに描出されているものの巨大さには言葉を失う。ひとりでも多くの読者を獲得するにはすこしでも読みやすくしたいと版元が思ったとしても不思議ではない。その結果だろうか、今回の翻訳では会話はすべて改行され、普通の文学作品の作法というものに近づいた。黒原さんのお気持ちをおもんぱかると、哀しい気持ちになる。原書と同じように改行のほとんどないグッと圧縮された文章で翻訳していたら500ページを切っていただろう。4000円以下で刊行できただろうに、早川書房は読みやすさを選んだ。改行された会話を見て鬼籍に入った著者はどう思うだろう。本が届いてから、ぼくはそのことばかり考えている。黒原さんがどれほどの思いやりを込めて翻訳してきたか、それも片時も離れない。
不思議なことに、ぼくはこの改行だらけのスカスカした字面が読みにくくて仕方ない。マッカーシーの遺作なんだぞと言い聞かせ、暴れそうになる気持ちを鎮めながらページを繰っている自分がおかしい。
良い悪いということではもはやない。日本の出版事情がここに現出しているだけのことだ。早川書房は頑張っている。刊行することの意義を護ろうとしている。たとえ原著とはほど遠い見栄えになったとしても、書店に並ぶことを選んだ。ぼくらは忸怩たる思いを抱えつつ、この遺作を味わう。それが遺作にかかわったすべての方々への謝意になると信じながら。
夕餉は、コンニャクと竹輪の甘辛煮、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・玉葱・ネギ・人参)、シメジとシーフードのドリア、赤ワイン。食後にコーヒー、かりんとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

半分以上は、読みどおりに

 

 

 

 


晴れ、のち曇り。21度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、鶏胸肉と玉葱の玉子丼。食後にコーヒー。
ぐんぐん気温が上がり、ソワソワする。
NHKの将棋トーナメント、決勝は藤井聡NHK杯と佐々木勇気8段。びっくりするくらい進行が速い。佐々木8段は考えるまもなく次の手を指す。解説の羽生善治9段が、最後まで読んでいてもおかしくないと話す。羽生さんの解説は、現代将棋における両者の凄みを緩むことなくつまびらかにしてくれる。
中盤以降、一手ごとに僕が声を上げるので妻が驚く。AIの予想になかった銀打ちを藤井さんが指して、ひょっとしたらと思わせたけれど、最後の最後に佐々木さんはAIの予想どおりに指し切った。羽生さんも途中で図らずも大きな声を張り、両者の読みの深さを印象づけた。8割がたはシミュレーションどおりの差し回しで、その速さは将棋が次の段階を迎えていると実感する。
昼餉は、菓子パン。
妻と買い物がてらの散歩。ヤマザクラだろうか、8分咲きはそこだけ空気も淡い桃色に。
昨年末に収穫し、土中に保存したのを掘り上げた菊芋がJAショップにならんでいる。
夕餉は、切り干し大根煮、菊芋のフレンチフライ、玉葱とシーフードのマカロニグラタン、味噌汁(小松菜・ナメコ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、バゲット、赤ワイン。食後にほうじ茶、かりんとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

ハクモクレンの香り

 

 

 

 

 

 

晴れ。20度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(キャベツ・油揚げ・豆腐・玉葱・大根・人参)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
妻とあちらこちらのハクモクレンを観て歩く。春を迎えていることの軽やかさが染み入ってくる。日差しは初夏のそれだ。
昼餉は、妻と公園で桜だんご・ズンダ団子、天ぷら丼、コーヒー。
池のマガモの夫婦が気持ちよさそうに泳ぎ、僕らが座っているベンチのほとりにやってくる。
夕餉は、切り干し大根煮、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・人参)、サバ缶カレーの残り、赤ワイン。食後にほうじ茶、ピーナッツとおかき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉が伝えないもの

 

 

 

 

 


晴れ。16度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大根・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、ハム・目玉焼き、味噌汁(小松菜・大根・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、バタートースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
料理の後片付け中に、軽いぎっくり腰。段ボールを持ち上げたりしていたせいだろうか。ウッ、ツゥゥ、動いた拍子にうめく。心配する妻の声が気に障るのは、ぼくが疎ましく思っているからで、その心持ちはかならず伝わる。ヒトは言葉よりはるかにたくさんの粒子を発散させたり、光子として届けたりしている。感情は、ただ感情として伝わる。言葉はかえって邪魔なのだ。当たり前のことだが、言葉はかならずしも真意を伝えはしない。心配する声を疎ましく感じるのは、それがまことの心配ではない、不純物が混じっているとわかるからだ。
昼餉は、天かす・小松菜・竹輪の温かい蕎麦。
小学校に寄贈するピアノの調律師と日程の調整を。僕らの同席はかなわず。
文字は手書きに限る。コンピュータを使うと、片っ端から嘘っぽくなる。手書きはすべてをそのまま伝える力がある。言葉の背後のものごとほど、はからずも伝わる。このごろではAIが代筆している。そのシリコンのような金属のような言葉からは、はからずも伝わるものがないと思う。ぼくらは、伝わってこないことに苛立つようになる。それが世情を覆うようになるまで時間はそれほどかからない。
妻の作った夕餉は、野菜スープ、サバ缶のカレーライス、赤ワイン。食後にほうじ茶、歌舞伎揚。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三体のこと

 

 

 

 


晴れ。14度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大根・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(大根の葉・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・大根)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
『三体』という小説が世間でどう評価されていようと、ぼくはどうかとおもう。彼の国の体制がどれほど不幸な道を辿ったかは、今の姿を見ればうかがい知れる。そこで作家となることの決意は想像もつかない。だが、感心しないのだ。この作家のヒトというものへの眼差しが。SFというジャンルをわざわざ設けて、そこで展開される物語のありようにぼくはさほど興味がない。物語をジャンルに刻むことは己れに対する過小評価だと、作家自身は思っていてほしい。なにはさておき、ヒトが描けない作家がアイデアに頼って書く物語にぼくは呆れてしまう。
昼餉は、豚まん、パン、コーヒー。
大昔、『Star Wars』か『Close Encounters of the Third Kind』かで論争が起きた。面白いと思う方を選べ、と。どちらも荒唐無稽の物語だが、SFという土俵でのことだ。おおかたは前者を選び、それは伝説となり、大きな樹へと育った。
ぼくは後者に与する側だ。それは今も変わらない。焦燥というものの具体的な描き方はウィリアム・ワイラー監督の『The  Collector』やマーティン・スコセッシ監督の『Taxi  Driver』とともに語られるべきものだと思うからだ。衝動や焦燥を描くことは、物語の大切な扉なのだ。それはSFというジャンルに身をやつしても隠しようがない。
夕餉は、こんにゃくと竹輪の甘辛煮、マカロニと鶏胸肉のグラタン、味噌汁(小松菜・玉葱・大根・蓮根・人参・油揚げ・豆腐)、フランスパン、ビール、ウィスキー・オンザロック。食後にルイボスティー、甘栗。

 

 

 

 

 

 

 

 

ご勝手に、どうぞ

 

 

 

 

 

晴れ。12度。北西の強い風。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大根・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・大根の葉・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・大根)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
宅配便が訪う。段ボール2個を本の買取店へ。20キロくらいありそうな箱を重ねて、ひょいと持ち上げて行ってしまった若者の背に、気をつけてねと声をかける。鍛錬のたまものというべきか。
普段着の数を4分の1以下に減らそうとしている。ユニクロなんかの安物をすべて処分して、残りは買取店へ。それでもまだ多い。素朴で簡素でわかりやすい——身の回りをそんな状態にまでもっていくのに費やす日々のことをおもう。
手元にあるレイバンのウェイファーラーは往時のボシュロム社製でアメリカ時代のヴィンテージだ。リムやテンプルはセルロイドなので、もちろん劣化している。ヴィンテージを買ったわけではない。使い続けるうち歳月が流れていったのだ。持っている人にしか価値はわからない。モノの物語はそんなものだ。処分するとなると二束三文である。使い続けるうちはいいけれど、その先には哀しい結末しかない。懊悩するのは、物語との決別がままならないからであって、もったいないというのとは違う。工業社会の徒花と言ってしまえば、なるほどそうなのかもしれない。
昼餉は、妻とモスバーガーへ。ハンバーグとフレンチフライ、コーヒー。
その足で散髪へ。いつものツーブロック。ずいぶん伸びていたのでスースーする。
金継ぎした陶磁器を見ていると、どうひっくり返っても敵わない孤絶感に驚くことがある。ヒトによって生み落とされ、ヒトによって甦らされた。たまたまそこに在るという、諧謔にも似た放心が器から見え隠れする。アンタが何を読み取ろうと、それはアタシにはどうでもいいこと。どうぞ、ご勝手に。そう言われたような錯覚が、器からゆらゆらと立ち昇っている。
徒花もそこまでいけば大成である。これも「ご勝手に」の一つだろう。
夕餉は、納豆、マカロニサラダ、フレンチフライ、焼き鮭、味噌汁(玉葱・人参・小松菜・大根・油揚げ・豆腐・大根の葉)、玄米ご飯。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春の大雨

 

 

 

 

 


曇り、のち雨。7度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・キュウリ・チーズ・大根・カニカマ・バジル)、味噌汁(大根の葉・大根・玉葱・人参・油揚げ・豆腐・シメジ)、卵焼きのトーストサンドイッチ、アールグレイ。食後のコーヒー。
シェアカーを借りる。妻を3つ先の駅の友人宅へ送る。遅ればせの雛祭り茶会。晴れていれば電動自転車が気持ちいいだろうに。
昼餉は、ウィンナーソーセージと玉葱のアーリオオーリオ・ペペロンチーノ、コーヒー。
午後から雨脚が強まる。
シェアカーで妻を迎えに。もう一人の女性も乗せて送り届ける。借りたのはダイハツのムーヴ キャンバス。いろいろな装備が付いている。電子制御のパーキングブレーキがこのクラスに必要なんだろうか。エンジンはちょっとアクセルペダルを踏むと馬脚を露わす。ターボが付いていないと使えない。サスペンションのストロークはたっぷりあるべきだが、段差のいなし方はまあまあ。雨の日に乗り味がしっとりしているのは当たり前だけれど。インテリアの意匠は悪くない。液晶の取ってつけた感はいかんともしがたい。ハンドルは革巻きだろうか。触感は普通車も含めてトップクラス。
カラカラに乾いた日でも、しっとりした乗り味のクルマをこの国のメーカーはちゃんと作るべきだろう。
家のそばのスーパーの桜についた花が雨に濡れている。
本棚からあふれている本から買取屋に送るものを見繕う。段ボール2箱。
夕餉は、納豆、大根の皮と人参のきんぴら、キャベツの卵とじを添えたメンチカツ、味噌汁(大根の葉・玉葱・人参・大根・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後にコーヒー、かりんとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくらは縮図、言うまでもないけど

 

 

 

 

 

 

 

おおむね晴れ。12度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(キャベツ・大根・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(大根の葉・玉葱・人参・大根・油揚げ・豆腐)、卵焼きとバターのトーストサンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
片付けの続き。買取屋に持ち込む物が増えていく。ネットで売ることも考える。革靴や革鞄、銀製品、それに膨大なApple製品やノベルティ——ほかにも出てきそう。
処分するものを判断する妻のペースが少しずつ速くなる。慣れてきたらしい。
 昼餉は、豚まんじゅう。
妻と近所の買取店へ。引き出物の陶磁器やら。いつのまにかCDやレコードが店の中央に大きな棚を占めている。僕らが持ち込む物は、世間の状況を反映している。未使用のものやサブスクリプションで済ませられるもの、それなりの価値があっても使えないもの、値段がつかなくてもいいから処分したいものを片っぱしから持ち込む。ちょっと前まではそれなりの時間をかけて査定していた店も、今は10分と待たせない。ひと山いくらである。買取店というより廃品回収に近い。
買い手は若い世代が中心かと思いきや、持ち込んだ年寄りが他を物色していたりする。
夕餉は、小松菜のお浸し、納豆、大根の皮と人参のきんぴら、卵焼きを添えた焼き鮭、味噌汁(大根の葉・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西遊記、まぼろしの桂打ち

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。10度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大根・キュウリ・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
本が届く。筑摩書房の世界文学全集の9巻目『西遊記』だけが欠けていた。70巻が揃って、これを買い取り屋に送るべきか、棚に並んだ黒表紙の金文字を眺めて逡巡している。たとえばキルケゴールの『死にいたる病』とニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』が27巻目にいっしょに収録されている。そういう編纂の時代性はどうしても感じる。だが冒頭の「第一編  死に至る病とは絶望のことである」という文字を見ると、そういう時代性はどうでもよくなる。いついかなる時でもいい、なにげなくふと手に取ってどのページでもよいから読みはじめる。それが文学全集をそばに置いておくことの邂逅という贈り物の本質ではなかろうか。
つぶさに読むことはないかもしれない。「ふと手に取って」という豊穣まで否定したら、人生に残るのはなんだろうとはからずも極論してしまったり。
昼餉は、中華スープ、焼きそば。
文学全集を読み耽った高校生の時間は、今も本のページに流れている。それは過ぎ去ったことではないのだ。
NHKの将棋トーナメント。羽生善治9段が藤井聡NHK杯に敗れる。対局後が面白かった。ボソボソと柔らかい声で藤井さんが終盤のある一手について危惧していたと話す。その桂打ちに気づいて、羽生さんが繰り出していたら結果はどうなっていただろう。その一手を藤井さんが指し、それに続く数手を並べて話した瞬間に、羽生さんは「ああ!そういうことですか……」と大きな声を張った。羽生さんは気づいていなかった。解説の佐藤天彦9段もだ。一人だけが、そのリスクに身を震わせていたのだ。だから勝った。トーナメントの1年をつうじて、この一瞬だけが示唆に富んでいた。将棋の面白さを教えてくれるまぼろしの桂打ちだった。
夕餉は、大根の煮物、キャベツの千切りを添えたコロッケ、鶏胸肉のレモン・バジル唐揚げ、味噌汁(小松菜・大根の葉・油揚げ・豆腐・大根・人参・玉葱)、玄米ご飯、ビール、ウィスキー・オンザロック。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピーター・セラーズとThe Goon Show

 

 

 

 

 

晴れ。9度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・キュウリ・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・人参・玉葱)、卵サンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
予約注文の誘いがまた来る。田中泯のエッセイ、ガルシア・マルケスの遺作——Amazonはぼくを追いかけてくる。なんにも知らないくせして、痛いところを突いてくる。あちらはこちらの暮らしに無頓着の極みだ。そんな関係だからというべきか、向こうは儲けつづける。こちらはなお吸い取られていく。子どもたちにアダム・スミスの見えざる手を教えるのは不可能だ。つくづくそう思う。
失った実体のことを想う。それが確かにそこに在ったことをぼくらは透徹の眼差しで見つめてきただろうか。レコード屋、本屋、文房具屋、映画館……。街は滅んでいく。人は雑草の中へと埋没し、いつしか潰える。
昼餉は、中華スープ、野菜とウィンナーソーセージの焼きそば、コーヒー。
世界最大の森林が滅びつつある、という危惧を込めて社名にその地名をつけたというもっともらしい逸話を持った、その会社が街を滅ぼそうとしているのはある意味で予定調和の復讐といっていいかもしれない。
Netflixのドラマ、ガイ・リッチー監督『The Gentlemen』。2話まで観て、いかにもリッチー監督らしいと思う。既視感が満載の筋書きと、それに輪をかけた展開の妙。全編に漂う貧相さは、詰め込みすぎておくびが出そうになるせい。食傷気味なのはこの監督のアイロニーに根ざしている。余韻など蔑視してこれでもかと畳みかける流儀の一派といっていい。それは英国人の階級の血であり、映像的には『空飛ぶモンティ・パイソン』へと遡ることができるが、源流はたぶんBBCラジオの『The  Goon  Show』ということになるのだろう。ピーター・セラーズなどという懐かしい名前はその頃から登場する。
妻は友人の舞台を観に電車に乗って。夜に帰る。
一人の夕餉は、ポテトサラダ、大根の煮物、焼き鮭、味噌汁(小松菜・大根の葉・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。

 

 

 

 

 

 

 

 

屁理屈を並べつつ

 

 

 

 

 

雪、のち曇り。10度。家々の屋根の雪は昼に消えた。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大豆煮・キュウリ・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・人参・玉葱)、卵焼きとハムのトーストサンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒー。
米原市教育委員会事務局とピアノの搬入について日程調整。調律は4月の予定。
搬入した箱は半分くらいに減ったものの。
昼餉は、中華スープ、焼きそば。
妻の服は生涯で着られるぶんの軽く3倍はあるだろう。それはぼくの本や小物全般にもいえる。やろうとして二人が躊躇してしまうのは、ケリをつけることかと思う。容易に決着のつかなかった物事を、なんらかの結論を出して終わりにする——ケリとはそういうことだ。だいじなのは、最後の「終わりにする」ということである。年老いてからまだこんなことで惑っている。さらに生きるつもりでいるらしい。愚かなことである。
ケリをつけるという点で二人に欠落しているのは、吟味である。詳しく念入りに調べること——吟味とはそういうことだ。モノの素性を突き詰めれば、己れとの関係性がつまびらかになる。吟味もせず、身近に置いておく。それは極論すればゴミの扱いである。
偉そうだ。
夕餉は、味噌汁(小松菜・人参・玉葱・油揚げ・豆腐)、小松菜のバターソテー・人参のグラッセ・ポテトサラダを添えた合い挽き肉のハンバーグ、ウィスキー・オンザロック。食後にほうじ茶、焼き栗。

 

 

 

 

 

 

 

本、また本

 

 

 

 

晴れ、のち曇り。10度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、ウィンナーソーセージと目玉焼き、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・人参)、バターのトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
運び込まれた荷物をほどいていく。妻のばかりではない。なぜ向こうで処分しなかったのかと思うようなモノが果てしなく出てくる。吐き気をもよおすような気分。
いくら夢中だとはいえ、コーマック・マッカーシーの『越境』が文庫で2冊、単行本で1冊。ほかにもマイケル・オンダーチェの『英国人の患者』が文庫と単行本で1冊ずつ、イサク・ディネーセンの『アフリカの日々』は文学全集が1冊、単行本が1冊、文庫が1冊——これを病気と言わずしてなにが病か。そんなのがぞろぞろ出てくる。言い訳をすれば、札幌も含めて3拠点で暮らしていると、どこになにがあるかなんてすぐ忘れてしまう。一方で、好きなものはいくつあってもいいという愚かな欲がどこかに潜んでいる。それを自覚しているつもりで、どこか確信犯なのだ。
妻に謝る。ほんとに異常なのは、こういうのを言うんだと。そんな本たちを見せる。だから偉そうに捨てろと言い続けても赦してほしいと。
昼餉は、マッシュルームとシャケのクリームパスタ、コーヒー。
雨の日が続けばいい。今年の3月のように。未読たちに手を伸ばす機会が増えて、望洋とした視線の行き先を愉しめる。
マクドナルドでチュロスとコーヒー。妻とピアノの搬入日と予算の確認。
溢れかえる本棚と新たに加わろうとしている本から買い取ってもらうぶんを決めていく。もう読まないと言い切れるものが存外おおい。
夕餉は、納豆、ポテトサラダ、味噌汁(小松菜・油揚げ・豆腐・人参・玉葱)、玉子丼、ウィスキー・オンザロック。食後にほうじ茶、焼き栗。

 

 

 

 

 

 

 

 

少しずつ捨てていく日々

 

 

 

 

 

雪、のち曇り。8度。
8時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大豆煮・キュウリ・カニカマ・チーズ・バジル)、味噌汁(人参・キャベツ・油揚げ・豆腐)、ハム・卵焼き・レタスのトーストサンドイッチ。食後にコーヒー。
家々の屋根に雪が積もっている。
昨日の追記——妻の自転車を店で廃棄してもらう。例によって妻は逡巡した。それを視野にとらえながら処分費を払う。あなたは血も涙もない、という目で妻がこちらを見ている。だが声はない。ぼくらはずっと無言で歩き、食材を求めて帰った。
大貫妙子の2015年のアルバム『Tint』をずっと聴き続ける。小松亮太のバンドネオンが寒々とした部屋を満たしていく。デュオでもう1枚聞いてみたいと思いつつ。
昼餉は、抜き。
引越し業者が訪う。雨がポツリと落ちるなか、搬入は1時間ほどで終わった。廊下や居間に箱が並ぶ。妻が長浜で求めた電動自転車も所定の場所に並ぶ。こちらで処分するくらいなら、向こうですればよかったものが箱にたくさん詰まっている。米原の暮らしで求めたさまざまなモノの中から取捨選択がはじまる。行平鍋、料理道具、大小の皿、靴、服。足して1.5倍くらいになったのを半分くらい処分できれば。妻に憎まれ口を叩くのは、詰まるところ自分を傷つけるだけ。
夕餉は、サラダ(サニーレタス・キャベツ・チーズ・大豆に・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・人参・油揚げ・豆腐)、クリームシチューの残り、玄米ご飯。

 

 

 

 

 

 

 

 

深夜バスの慟哭を聞きながら

 

 

 

 

 

曇り、のち雨。8度。
朝5時過ぎ、新宿バスタに着く。バスは3列シートの窓側。前席に妻が座っていた。
どこを走っていたのか。休憩場所もその回数もわからないまま。最後だけ降りてトイレへ。ずっと眠り続けて腰が痛む。
朝餉は、コンビニで買ったパンとミルク。こちらのほうの寒さがこたえる。
買い求めていた本が届いている。劉慈欣著、大森望・光吉さくら訳『三体』(早川書房)、木皿泉著『さざなみのよる』(河出書房新社)。どちらもなぜ注文したのかわからない。とくに前者は。
米原のアパート、鉢植えでかろうじて生きていた万年青は、根から土を落とし、濡れたキッチンペーパーでくるみ、ダンボールでこしらえた小箱に入れて持ち帰ってきた。ベランダの大ぶりの鉢の痩せた土に小さな穴を開けそこへ根をさした。育つも育たぬもオマエしだい。
琵琶湖の砂で作った土はとうの昔に養分も流れ出ていた。それでも万年青は姿を小さくして分相応に生き続けた。アパートの玄関脇の西陽が容赦ない場所で。三島池のそばの園芸市で求めたときは立派な葉を四方へ伸ばしていた。明るい未来を待ち受けるように。
こちらのベランダはもっと過酷かもしれない。滋賀の万年青といえば、そんじょそこらの万年青とはわけが違うはず。その実力を見せつけられるだろうか。
コロナ禍からはじめた投資を昨夜、名古屋の深夜近いファミレスで売却した。日経平均が4万円台になり、頃合いだと思った。ズンズンと上り続けるかもしれない。それはそれ、これはこれだ。
妻の作った夕餉は、味噌汁(キャベツ・油揚げ・豆腐)、クリームシチュー、ご飯。
MacBook Airの溜まっていたOSアップデートを片付ける。iOSとiPadOSは17.4を正式リリースした。
LINNのDSMファームウェアをアップデート。Davaar 106のBuild 537(4.106.537) は、Roon Readyで長いメタデータを処理するクラッシュ/再起動ループの修正、DSDトラックのギャップレス再生の修正など。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらば、米原

 

 

 

 

曇り。10度。
6時に起きる。ホテルはカラカラに乾いていて喉が痛い。左肩はもっとひどい。
朝餉はホテルのバイキング。切り干し大根、サバ味噌煮、サラダ、パン、野菜ジュース、カフェオレ。チェックアウトしてアパートへ。
引っ越し業者が訪う。20分ほどで積み込みが終わる。久しぶりにプロフェッショナルの仕事を見て気持ちが良くなる。ほんと、良い仕事は身体にとてもいい。幸せになるのだ。
カーシェアを使って妻と彦根のマスターの店へ。クルマはe-POWERノート。マスターはお元気そう。今週末に長崎へ旅行するとか。あれこれ話して、ワッフルやクロワッサン、サラダなんかをコーヒーとともに。ちょっとさみしい別れ。
冷蔵庫と洗濯機の引き取り業者が訪う。廃棄するモノはほとんどなくなった。
市役所の学校教育課へ。寄贈先の学校を絞る。妻の母校の小学校に決めた。2階の多目的ホールで合唱の練習やらに使われるとのこと。
調律を含めて搬入のスケジュールを詰めることに。
不燃ゴミとして7袋ほど廃棄処分。わずかに残ったモノはガレージとゴミの日に。ピアノの搬入に合わせてまた来る日に片付ける。
妻と東海道線で名古屋へ。名古屋から深夜バスに乗る。新宿のバスタには朝5時過ぎに着くはずだけど。寒気がして嫌な予感。
夕餉は、ファミレスでビーフシチューや担々麺を。