絶望という名の言葉

 

晴れのち雨。21度。夜に雨脚、強く。

6時に起きる。

女房と4キロをジョグ。

朝餉は、バナナとリンゴ、レタスと茹で卵のサラダ、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、ピザトースト、アールグレイ、ミルク、コーヒー、バームクーヘン。

東からの突風が、ツツジの枯れ花を琵琶湖へと吹き飛ばす。風が止むと、名も知れぬ蝶が次から次へとやってくる。それとわかるのはクロアゲハくらい。

名前がなければ、この世に存在を許さないとでも言いたいのか。

見上げれば、星々。

名付けの順番待ち、その虚しさが輝いているというのに。

クロアゲハ。その名の妖しさも記憶の淵に迫り来る。

昼餉は、女房が作ったチーズサンドイッチ、コーヒー。

ちょっと肌寒い時に手放せないデニムシャツといえば、それはもうJapan Blue Jeansの8ozにとどめを刺す。これ一着あるのとないのとでは、大袈裟にいえば暮らし方が変わる。シャツが欲しいと魔が刺した時は思い起こす。

このシャツが慰撫してくれるのは、それまで気付かずにいたささくれだったりする。羽織らなければ、わからなかったことだ。

服はときとして、そんなことをやってのける。鏡の前で、僕はそのセルビッチ・シャツの佇まいを確かめる。

嵐の日、8ozのありがたみ。

夕餉は、納豆、アジフライ、味噌汁(人参、キャベツ、玉ねぎ、カボチャ、豆腐、ネギ)、チャーハン。食後に女房の作ったクランチチョコレート。

 

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Le Petit Prince

 

曇り、のち日差し。22度。突風。

6時に起きる。

女房と4キロをジョグ。

朝餉は、肉じゃが、キャベツとレタス、長芋のサラダ、ベーコンと目玉焼き、味噌汁(人参、玉ねぎ、カボチャ、揚げ、ネギ、とろろ)、ドイツパン、アールグレイ、ミルク、コーヒー、バームクーヘン。

走って帰ってきてから、南東の強い風が吹き始め、木々が大きくたわむ。春の嵐は、夕方まで吹き荒れた。

昼餉は、女房の作ったきし麺。

ふと思って読み始めた『星の王子さま』は、子供の頃の女房が買った岩波の愛蔵版で、彼女がどこからか持ち出してきてくれた。

僕は冒頭のウワバミの話くらいしか覚えていなかった。翻訳が内藤濯さんのオリジナルのハードカバーを小学生の僕は買い、その新書版のようなサイズの本から立ちのぼる独特の匂いにちょっと気分を削がれながら読んだのを覚えている。

小生意気だったので、どうせ子供向けなんだと見下して飛ばし読みしたはずだが、今になって目から鱗が落ちるようにして頁を繰ることができる。年月の経ちようによっては、小生意気であることも良い方へ振れるらしい。

内藤濯さんは日本にドビュッシーを紹介した仏文学者だが、この本はその後、さまざまな翻訳者を輩出している。ところが、倉橋由美子さんも池澤夏樹さんも、なぜか内藤さんの書名を踏襲している。これ以上ないくらいの的確性を有していたのだ。

夕餉は、アジフライ、豚バラ肉のキャベツチャンプルー、味噌汁(人参、玉ねぎ、揚げ、ネギ)、玄米ご飯。食後にバームクーヘン。

巣立ったばかりらしいトンビが近所の電信柱のてっぺんで鋭く鳴いている。飛び立つと、どこからかカラスがやってきて執拗に追いかけ回している。

 

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東風吹かば

 

曇り。東の強い風。

6時半に起きる。

女房と3.5キロをジョグ。

朝餉は、りんご、肉じゃが、高野豆腐、味噌汁(人参、カボチャ、煮干し、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、BLTサンドイッチ、アールグレイ。

伊吹山の麓の土曜市へ。天然酵母パンや植物を求める。キーマカレーは道の駅の二階で伊吹山を望みつつ食す。

岐阜のパン工房へ行き、さらに窯焼きパンを求めてから、醒ヶ井経由で帰る。

庭仕事。ツツジの花を刈り取り、枝を詰める。女房は市で求めた野イチゴやかすみ草の植え替え。野イチゴの花は赤だったり黄だったり。買う際、売り子の女の子に女房が色違いのわけを尋ねると「先生、どうしてですか?」と女の子は隣の男に問いかけた。彼女たちの売店は長浜農業高校だったのだ。

夕餉は、肉じゃが、酵母パン、キーマカレー、目に付く残り物を。

先生、と呼ばれた男はレジの横で答えた。

わからんなぁ。

 

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演ずる側から

 

おおむね晴れ。25度。

6時に起きる。

女房と3キロをジョグ。クレマチスが咲き始めた。

朝餉は、高野豆腐、レタスとキュウリ、トマトのサラダ、リンゴ、ほうれん草のお浸し、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、ネギ、煮干し)、BLTサンドイッチ、アールグレイ、ミルク。食後にコーヒー、バウムクーヘン。

ミシェル・ベロフが弾いたドビュッシーのピアノ作品全集は’07年にリリースされている。右手が動かなかった時期、ベロフはどのように生きていたのだろう。縦横に動かせなかった右指たちの痕跡をこの作品集に探してしまう。まるで粗探しをしているように。そんなものが見つかるわけもないのに。

ベロフの音は、たとえば『アナカプリの丘』の冒頭の粒立ちに特徴がよく見てとれる。それはもはやピアノの音には聴こえない。戸惑って、口から漏れる悲嘆とか慟哭のようだ。一切の表情を取り去ったような響きは、ベロフからドビュッシーへの贈り物のような気がする。

フランス人からフランス人への贈り物。その往還の様子が、ベロフの作品集には満ちている。

二人のフランス人、二人の男。

昼餉は、シリアルとミルク。

10キロをジョグ。

Appleは、macOSのパブリックベータ ・プログラムを更新して10.14.6のβ1をリリースした。改良の中身は不明だ。

夕餉は、高野豆腐、肉じゃが、豚ひき肉の野菜炒め、味噌汁(人参、玉ねぎ、カボチャ、豆腐、ネギ)、玄米ご飯。食後にコーヒー、バームクーヘン。

 

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BDなら星の王子様も

 

晴れ。24度。

6時に起きる。

女房と3キロをジョグ。途中、吉継の首塚に詣る。

朝餉は、バナナとリンゴ、味噌汁(人参、キャベツ、豆腐、ネギ、とろろ)、BLTサンドイッチ、ミルク、コーヒー、どら焼き。

不条理を読んでいたのは高校の頃だった。だが、カミュばかりでサルトルへは向かわなかった。姉はボーボワールから入って、サルトルをたどった。若い娘は何を思ったか、それから対極へと舵を切り聖書の世界へ分け入ったが、その頃には僕らのつながりは絶たれていた。互いの世界に関わっている暇など、偏狭な男の子にはなかった。

若者は不条理に感染して、熱病を患う。身体の成長に観念が追いつかず著しいインバランスが表出すると、歪みを正そうとして地震が起きるように、若者はとりあえず不条理へと突入していく。

本質は、不条理にあるのではなく、あくまで歪みを生じた若者の観念にある。不条理に本質などないのだ、と言い切るのは僕が歳を取ったせいである。

昼餉は、長芋とほうれん草のお浸し、天ぷらそば。

『異邦人』を読み、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画も観たというのに、記憶に残っているのはいつ果てるともしれない感染症と戦う、絶望さえ忘れてしまった人々を描く『ペスト』のほうだ。

海辺だったかで出会った人を、太陽が眩しかったからという理由で殺してしまう(ような筋だったか)、読むのはもちろんだが、マルチェロ・マストロヤンニの顔を確かめる気力もない。バンド・デシネ版なら理解は深まるだろうか。とんだ不条理ではある。

夕餉は、コロッケ、高野豆腐、キャベツとキュウリ、トマトのサラダ、サバ味噌煮、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、玄米ご飯。食後にコーヒー、バームクーヘン。

 

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はばたき

 

おおむね晴れ。23度。

7時に起きる。

女房と3キロをジョグ。

朝餉は、バナナ、長芋の酢醤油、トマトのオリーブオイル掛け、味噌汁(人参、カボチャ、豆腐、玉ねぎ、ネギ)、玉子サンド、ミルク、コーヒー。

今年も梅の実が生理落下している。剪定して待っていたぶんだけ、期待が大きすぎた。道理を何も知らない人為が加わると、植物はそれを裏切ってみせる。期待とは、無知の異口同義語なのだぞ、と諭されているようだ。

知悉が期待を排除する特効薬なのだとしたら、高度な教育は、遠回しの絶望かもしれぬ。無辜は、無知とつながっている。

ドフトエフスキーが追い求めたテーマのひとつだったかと思う。

昼餉は、菓子パン、焼きそば、コーヒー。

駅のいつもの場所にツバメが戻っている。ヒバリが短い羽根で螺旋に登っていく先に、薄ぼんやりした雲が滲んでいる。

終わりかけたツツジのひとつを剪定してみる。表面の葉を刈ると、すぐに小枝の絡まりが姿をあらわすものの、どこから見てもそれは枯れて見える。晩冬に芙蓉も根元から伐ったときは枯れてもいいと思っていたが、今は小さい葉がいっぱい伸びている。ツツジはどうなることだろうと思いつつ、枝を整え、刈った枝を集めたら大きな袋がいっぱいになった。

電信柱のてっぺんから、トンビの若鳥が立ち働く僕らを威嚇するように声を張っている。

夕餉は、キャベツとレタス、キュウリのサラダ、サバ味噌煮、味噌汁(人参、煮干し、カボチャ、豆腐、ネギ)、鶏ひき肉丼。食後にコーヒー、カステラ、アイスクリーム。

 

 

日本に影響を与えた漫画家

 

曇りのち雨。21度。

6時に起きる。

女房と2キロをジョグ、2キロをウォーキング。

朝餉は、高野豆腐、味噌汁(人参、カボチャ、小松菜、油揚げ、ネギ)、BLTサンドイッチ、ミルク、コーヒー。

報復関税を米国に課すという中国の発表を機に、株価が下げ、円高が進んでいる。これで、二往復目か。僕らの頭上を数字に姿を変えたミサイルが飛び交っている。

関税に絡んで、米国は知財権や技術移転の強要といったイシューを通商協議のテーブルに乗せようとしている。このあたり、米国は党派を超えて一枚岩のように見える。

昼餉は、高野豆腐、中華スープ、豚ひき肉の焼きそば。

フランスの漫画家、Jean Henri Gaston Giraud(ジャン・ジローと呼ばれることが多い)は突出していた。Moebiusというペンネームで描いたSF物とともに、カットの一枚一枚が独立した絵画作品になっていた。バンド・デシネのど真ん中にいた人だが、洋書の古書店とかに行かなければ手に入れることは叶わなかった。運良く出くわしたとしても、一万円以上もする画集並みの値札に気後れしたものだ。

いわゆるコミック・ストリップとして当初はフランスでも読まれていたが、僕の感覚では美術館で鑑賞する絵画に近かったし、それは今でも同じだ。メビウス線と呼ばれた陰影線を眺め続けていると、凝視しすぎて気持ち悪くなったものだ。

手に入れにくいという点では、今でも変わらない。それは驚くべきことだと思うが、日本ではなぜか需給がバランスしているらしい。かといって、Kindleでダウンロードするのは絵画にそぐわないと思ってしまう。

シルクスクリーンがぼちぼち出回っているのだが、実物を見ずに買えるほど向こう見ずになれない自分も哀しい。

AppleがOS群をアップデートして正式にリリース。macOSは10.14.5、iOSは12.3、watchOSは5.2.1、tvOSは12.3に。

 

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イノセント?

 

晴れのち曇り。26度。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴ、味噌汁(人参、玉ねぎ、小松菜、煮干し、豆腐)、ピザトースト。食後にコーヒーと赤福。

女房が、終わりかけのツツジの花と格闘している。白い花は鼻をかんだティッシュペーパーみたいだし、赤い花は犬の数日経ったフンみたいだ。

そういう変化も織り込まなければ、ツツジと暮らすとは言えない。それくらいわかっているわよ、と女房の背中が語っている。

昼餉は、ベーコンと玉ねぎ、塩昆布のパスタ。

 

 ラフな作業服を着て、麦藁帽子をかぶり、シャツの襟をはだけたヘルマン・ヘッセの個性的な写真が、八十歳の誕生日から一年後の一九五八年七月上旬に、ニュース雑誌「シュピーゲル」の表紙に掲載された。二十年以上も前に、息子のマルティーンによって撮影された写真である。ヘッセは、丸いニッケルぶちのメガネごしに、優しいと同時に懐疑的な眼差しを読者に向けている。それはまるで、その写真の醒めた表情と、「シュピーゲル」の編集者がその写真の下につけた「庭のあずまやで」というキャプションとのあいだに現れている矛盾を読者が見抜いているかどうか調べているかのようである。

 

フォルカー・ミヒェルスのあとがきは、『庭仕事の楽しみ』の本質を巧みに突いていて、もしかしたら著者の文章より好みかもしれない。ヘッセの目つきには、ドイツ人特有の冷徹さも見え隠れする。著書の表紙も同じ時に撮られたであろうと推察される一様だが、この写真とは別人のようだ。植物に向き合う時には、この眼差しはないのだ。

我が家の女房がヘッセみたいになったらと想像するだけで眠気は吹っ飛ぶが、そこに至るには余命を使い果たしても足りそうにないので、僕はこうしてすっとぼけた文章を書いていられる。

夕餉は、高野豆腐、鳥ひき肉と木綿豆腐のハンバーグ、味噌汁(人参、カボチャ、小松菜、玉ねぎ)、玄米ご飯。食後にコーヒー、マシュマロ。

水彩画を見れば、ヘッセの本質は違うところにあると誰もが気づく。なんとも穏やかなその絵には罪がない。特に好きなのは、1930年に描かれたカーサ・カムッツィの庭の一角を切り取ったもので、眺めていると時を忘れる。

 

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いきなりの三々

 

晴れのち曇り。25度。西の風。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴとバナナ、キャベツとパプリカ、キュウリ、トマトのサラダ、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、煮干し)、トースト、コーヒー。

NHKの将棋と囲碁のトーナメント。ぜひとも教えを請いたい。もはやAIに勝てないプロフェショナルの集団にとってトーナメントに求められる魅力とはどこにあるだろう。定石を否定され、大局観の見直しを迫られて、なお有段者を自認するときに残るものとはなんだろう。

そういう自問は、彼らのうちに存在しているだろうか。

オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が米国の雇用者のうち半分近くがこの先10~20年で半減すると予測したのが5年前のこと。AIが取って代わるというわけだ。

銀行の融資担当者、スポーツ審判、不動産ブローカー、レストランの案内係、動物のブリーダーと続き、仕立て屋、時計修理工といった職業が続く。でも、そこにチェスや囲碁の有段者は入っていない。職業というほど彼らの就労人口が多くないからだろうが、それだけではあるまい。

昼餉は、食パンとミルク。

12キロをジョグ。Tシャツと短パンで隠れているところは別にして、あとは日焼け。

愉しんでいる職業人にAIが取って代わることはないだろう。ヒトが愉しみの源泉に対価を払うのは資本制度の起源以来の掟といっていい。職業という括りとは別のロジックが、オズボーンさんの予測を覆すのは目に見えているが、それが明らかになるのはもう少し先のことだ。

改めて教えを請いたいのだが、将棋や囲碁のプロフェッショナルの方々は、AIが否定した部分をどのように継承していくつもりだろう。AIが開発した差し手が対局に顔を出し、それを解説する彼らの言葉に耳を傾けている僕らは、いったい何を待っているのだろう。

女房、夕方に戻る。

夕餉は、味噌汁の残り、ポークカレー、コーヒー。食後に女房が買ってきた赤福。

 

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三ヶ月ぶりの声

 

晴れ。26度。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツと小松菜、ベーコンのペペロンチーノ、コーヒー。

17キロをジョグ。湖岸道路を彦根方面から北へウォーキングの人たちとすれ違う。

昼餉は、バナナとミルク、コーヒー。

AppleはiOSのパブリックベータ ・プログラムを更新してβ6をリリースした。

テキストエディタ『Stone』もマイナー・アップデート。欲しい機能が実装される日は来るだろうか。そんなことを願うのは、このアプリケーションに関する限り間違いかもしれない。

夕餉は、ポークカレー、コーヒー。

札幌から電話。母の日に女房が送った花や、姉に送ったマグカップの礼。母も姉も元気な声。

化石番組

 

晴れ。24度。

8時に起きる。

朝餉は、レーズンロールパン、ミルク。

『Top Gear』からの流れで『The Grand Tour』を観続けている。三人の司会は相変わらずだが、ジェレミーの下腹がいよいよ限界に近づきつつある(ような気がする)。あの身長で並み居るスーパーカーに乗るのは苦痛だろう。乗り込もうとして屈み込み、唸っている姿はいよいよ痛ましい。

昼餉は、抜き。

ジェレミーが「Power is everything!」と豪語し、時に「Power!!!」と雄叫びをあげる姿を苦々しく眺める向きはけっこういることだろう。世の中は均衡である、としたり顔が言うとき、それは極性の大きさを前提にしている。ジェレミーを嫌うのは明らかな矛盾だが、したり顔たちは、確信犯を好まないらしい。

Power is everything!とは、均衡に資するなにものでもない。

夕餉は、担々麺、ツナ、玄米ご飯。

ちなみに、ジェレミー・クラークソンの愛車はゴルフGTIだ。

それを乖離と見るか、ロジックの延長と見るかでこの世の有り様は変わる。

 

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1位もヘン?

 

曇り。20度。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴとバナナ、キャベツとパプリカ、コーンのサラダ、ベーコンと目玉焼き、味噌汁(人参、小松菜、豆腐、煮干し、玉ねぎ)、トースト、コーヒー。

映画はサム・ペキンパー監督の『The Wild Bunch(邦題:ワイルド・バンチ)』。アメリカフィルム協会の’07年版ベスト100でこれが79位にランクされている。『Once Upon a Time in the West』のほうがふさわしいのではないか。ついでだが、『The French Connection』の93位は理不尽かもしれぬ。

昼餉は、食パンと豆乳。

79位の口直しに2位を見始めたら止まらなくなった。フランシス・フォード・コッポラ監督の『The Godfather』。全米の男を虜にした映画だ。極東のこんな男だって同じだし、たぶん世界中の男がそうだった。観始めたが最後、エンドロールまで釘付けである。Part IIまで一気呵成だ。

酒を求める。『Johnny Walker Black Label』。12年物のブレンデッドとしては傑出している。黒ラベルが二千円を切っていたら、文句なしに買うご同輩は多いはず。

夕餉は、ベーコンの野菜炒め、味噌汁(人参、玉ねぎ、小松菜、豆腐、煮干し)、玄米ご飯。食後にコーヒーとハニーピーナッツ。

黒ラベルといえば『Blade Runner』で主人公が飲んでいたが、さすがにボトルのデザインはシド・ミード的であった。一方のグラスはArnolfo di CambioのCibiシリーズのオールド・ファッションと言われている(微妙に違うぞという声もある)。ボトルに合わせた意匠(というかボトルがグラスに合わせた?)は、買い求める人も多かったと聞く。主人公にちなんでデッカード・グラスと呼ばれ今に至っている。

ちなみに、ボトルの方は熱心な方々が映画を真似て作ったりしているがJohnny Walkerはあずかり知らぬことである。

見閉じろ?

 

晴れ。21度。

7時に起きる。

朝餉は、バナナとリンゴ、キャベツとコーン、トマトのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、煮干し、豆腐、ネギ)、トースト、紅茶、コーヒー。

映画はスタンリー・キューブリック監督の『Eyes Wide Shut(邦題:アイズ・ワイド・シャット)』。トム・クルーズとニコール・キッドマンが主演で、監督の急死や、夫婦の性生活がオーバーラップするといった話題が公開当時にあった。そういう前置きが頭から排除できないので、この映画はちょっと不幸かもしれない。小さい違和感を重ねていく演出はキューブリックらしいが、僕らが感じるその違和感は、不自然な演出と言い換えることもできる。百年近く前の原作は、現代的な解釈を挟むほどに辻褄が合わなくなるかもしれない。性的な風俗は最たるものかと思う。ちょっとした違和感や不自然さは、そのあたりに根がありそうだ。

昼餉は、シリアルとコーヒー。

13キロをジョグ。

通りに置いたバケツにいっぱいのツツジの花の枝。女房が出かける前に「どうぞご自由に」の紙を貼っておいたら、夕方までになくなっていた。女房に空のバケツの写真を送る。明日のぶんを切って、バケツに満たしておく。

夕餉は、さつまあげの中華野菜炒め、味噌汁(人参、ジャガイモ、煮干し、豆腐、ワカメ)、そぼろ丼、煎茶。

AppleはOS群のパブリックベータ ・プログラムを更新してβ5をリリースした。来月頭のWWDCで発表される次期OSを占う記事が一斉に出ている。

 

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意思という姿

 

晴れ。16度。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツとキュウリ、パプリカ、コーン、トマト、ツナのサラダ、さつま揚げと目玉焼き、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、煮干し、ネギ)、トースト、リンゴとバナナ、コーヒー。

札幌の姉に缶詰など長期保存のきく品々を送る。女房が求めたマグカップを添えて。

昼餉は、シナモンロールとミルク、コーヒー。

庭仕事。ツツジの花を近所に配っても焼け石に水のような。でも、配らないよりマシだ。

治りかけの腰に鈍痛。

植物たちに僕らはいつの日か飲み込まれる。ちょっと目を離したすきに、根を伸ばしている。芽を出し、蔓を伸ばし、葉を繁らす。石の隙間が大好物で、手の届かないところへと喜んで這っていく。

この星を青い惑星にした矜持が彼らにはある。大量の二酸化炭素を原始からずっと吸収してきた。僕らではとても生きられない大気をテラフォーミングするには、とてつもない忍耐と生き続ける強固な意思と繁殖力が必要だった。だからこそ、彼らは僕らを飲み込める。ためらいもなしに。彼らが味わった艱難辛苦に比べたら、僕らとの戦いなどなんの障害にもならない。

そのくせ、鉢に植えようものならあっという間に死んでしまう。その頼りなさをどこに隠し持っているのだろう。刮目するしかない。

そのしたたかさの表層しか僕らは見ていない。彼らの奥底に眠っている飛翔力の前に、僕らは赤子のように無知で陽気でいられる。

彼らは、そんな僕らを常に見ている。

夕餉は、竹輪とさつま揚げの野菜炒め、味噌汁(人参、ジャガイモ、煮干し、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、二色そぼろの丼飯。食後にコーヒーとマシュマロ。

女房は夜のバスで東京へ。クワイアの仕事。

 

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隻眼の視界

 

晴れのち雨。22度。

7時に起きる。

朝餉は、バナナとヨーグルトのジュース、りんご、ポテトサラダ、味噌汁(人参、カボチャ、煮干し、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、レタスの代わりにキャベツのみじん切りのBLTサンドイッチ、コーヒー。

現実とは目の前に在ることの総体だが、しかし、それだけとは限らない。ひょっとすると、それは全体の半分にも満たない。残りは、創り出すしかない。現実は、在ることと在りつつあること。そして、在りもしないことによって形作られている。

創り出すのは個々人であって、誰か他の人ではない。わかりきったことなど一つもないのだが、そのことをわかりきったように言うのはなぜだろう。

それは奇跡だ、と誰かが言う。ほかの事象は取るに足らぬものだと言っているようにも聞こえる。奇跡の物語を紡ぐ作家たちにたずねてみたい。それ以外の事どもをどのように捉えているのか、と。

ある種の神は、奇跡を行う。それがことさら語り継がれる、そのわけを知りたい。奇跡が在るのはなぜだろう。語り継ぐ人々は、神をどうしたいというのだろう。

昼餉は、レーズンパン。

10キロをジョグ。腰痛を確かめて、おっかなびっくりに。

人が奇跡に飢えているかのように見えるのは、奥底にどんな欲求があるからなのだろう。それは、現実の残り半分の要素とつながっているものだろうか。

夕餉は、女房が作ったタケノコの豆乳煮、タケノコのバター醤油炒め、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、そぼろの二色丼。食後にコーヒーと女房が作った抹茶あずきゼリー。

残りが在ると信じている僕は、どんな根拠に依っているのだろう。その確信めいたものこそ、もしかすると奇跡なのでは。

何も無いのと、何かが在るのと。

それは詰まるところ、同じことを見つめているのかもしれぬ。

 

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