草彅剛という声

 

 

 

 

雨、のち曇り。22度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・イチゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・キュウリ・チーズ・ラディッシュ)、味噌汁(シメジ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
古書が届く。幸田文著『幸田文全集 第十一巻』(岩波書店)、同第十六巻。この全集が放つ芳しさは言葉にできない。読むかどうかも定かではないのに手許に置いておきたい衝動に駆られるのは、その物理的な存在のなせるわざではある。函に収まった布装丁の書籍が作り続けられる確証はどこにもない。そういう工房はあと10年も経たないうちに絶えてしまうだろう。どこかの誰かが孤軍の道へ歩み出さない限り廃れるのだ。
妻はアルバイトの面接へ。昔取った杵柄は、果たして通用するものか。
妻はミニトマトの苗も求めてきた。ぼくがそのことで質問するとぶっきらぼうに答える。夫と共有する感情などないという感じに聞こえるのは、こちらの問題だろうか。
昼餉は、妻が昨夜買ってきた食パンの耳で作ったラスク、コーヒー。
マッカーシー著『ステラ・マリス』より——

 (前略)詩句はそれ自身の実体だけは持っているけれど歴史的な出来事は——個人的な歴史も含めて——実体をまったく持たない。歴史的事実の実体は痕跡を残さず消えてしまっている。わたしの経験から言うと記憶力の弱い人たちは誰よりも強く自分の記憶が正しいと言おうとするのね。
 きみの世界は今でも相当込み合っているだろうね。
 込み合っている。すべてを歓迎しているわけじゃない。何を迎え入れるかについては慎重になる必要がある。でもわたしはそれを変えようとは思わない。わたしはプラトンから絶対に逃げられない。あるいはカントからも。わたしはヴィトゲンシュタインを同時代的な存在だとみなしている。研究者仲間と。フッサールには恋をした。彼は数学者だったからわたしは信頼している。フライブルク大学の教授として若い研究者だったマルティン・ハイデガーを受け入れて指導し庇護者になったけれどその後ナチスが政権をとってフッサールを大学から追放するとなったときハイデガーはそうだそれが正しいと言った。フッサールは研究室を引き払って自宅にこもりそこで泣き暮らして死んだけれどハイデガーは師の後釜にすわった。ということでわたしたちに残された問題は哲学探究の基盤に人間的な高潔さがなくてもいいのなら哲学の目的とは何なのかということになると思う。ヴィトゲンシュタインは一生のあいだ自分の魂の状態のことで苦悶した。その種の問題はハイデガーの頭には一度も浮かばなかったみたい。(後略)

前段でマッカーシーは主人公に「詩句はそれ自身の実体だけは持っているけれど歴史的な出来事は——個人的な歴史も含めて——実体をまったく持たない」と言わせる。それ以後の記述は、まさに真逆を書いている。主人公の少女が平気で嘘をつくから気をつけてねと言う。これもそうしたロジックの上に成り立っている会話だ。
夕餉は、ヒジキ煮、妻の作ったコーンスープ、カレーの残り、ウィスキー・オンザロック。食後にアイスクリームとヨーグルトをかけたイチゴ、コーヒー。
妻とNetflixを観る。内田英治監督『ミッドナイトスワン』。主演の草彅剛さんは、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞をとっている。作品賞と新人賞もだ。それに相応しい内容と描き方だった。草彅さんの声には抑揚がない。普段の喋り方にもどこか無機質な響きがある。感情移入たっぷりの話し方や言い回しにどっぷりの現代にあっては、天国からの声のようにさえ聞こえる。