適量がわからない

 

曇り。16度。

7時に起きる。

朝餉は、ヨーグルトをかけたバナナ、カボチャと大根の煮物、キャベツとハム・目玉焼き、味噌汁(人参・玉葱・エノキ・ネギ・豆腐・小松菜)、トースト、紅茶。食後にコーヒー。

クレイジーソルトが安かったので、店先で悩んだ。

万能という言葉になぜ弱いのだろう、と思いながら。とりあえず買い物を続けることにして、その場を離れた。半値くらいだったけれどね。

塩とかペッパーは、個別に使ってこそだと。ひと振りといっても、同じ味になることは決してない。そこが気に入らないし、気に入っているのだったと。

ナツメグでさえ、手にするたび、どうしたものかと悩み続けている。ハンバーグのときにも塩と胡椒だけだ。肉も安売りのだし、卵もそうだ。

昼餉は抜き。

どんな食材でも、ごくたまに、うまく作れる時がある。塩と胡椒さえあれば他はいらないと思う時がたまにあるから、料理は素敵だと思う。もっと早くに買っていればよかった、といつかナツメグを買って思うかもしれない。

それはそれで、いいと思う。

夕餉は、チンゲンサイとひき肉炒め、野菜とひき肉の焼きそば、味噌汁(人参・玉葱・エノキ・ネギ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、かりんとう・煎餅。

 

 

 

社会性は、はるかに弱い

 

曇り。15度。

8時に起きる。

朝餉は、小松菜・ネギ・厚揚げの生姜炒め、目玉焼き、味噌汁(人参・玉葱・ネギ・エノキ・豆腐)、トースト、お茶。食後にコーヒー、チョコレート。

ドラッグを持っていた芸能人が逮捕されて、関連の記事にあった中毒者の言葉――「白い粉を見ると、毛穴が全開になり、脳がよだれを垂らす」。

文字を追いながら、しばらくのあいだ、ぼんやりした。こんな言葉が出るくらいの快楽に抗えるほど、ヒトは強くはあるまい。

そう思った。

昼餉は、フレンチフライとコーヒー。

脳は、身が滅びようが気にしていない。遺伝子の保存に適したことにのみ従う。セックスの快楽を極大にしてくれるなら、それを遠ざけはしない。

不思議なことだが、社会性とは対極にある脳の特性の強さが、一方では、高度な社会性を生んでいる。

社会性とは、詰まるところ法律である。

作ったのは脳だが、知ったこっちゃないと思っているのも脳だ。撞着しているようだが、強い快楽を得る方便は対極性にあるのも事実だろう。

種の保存と快楽を関連づけたのは、脳の果たしたことなのだろうか。

夕餉は、チーズを入れた鶏肉ハンバーグ(付け合わせは玉葱・パプリカ・人参)、味噌汁(人参・玉葱・小松菜・ネギ・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、チョコレートアイス。

 

 

キリがない

 

晴れ。18度。

8時に起きる。

朝餉は、ヨーグルトをかけたバナナ、大根と厚揚げの煮物、ハムとスクランブルエッグ、味噌汁(人参・玉葱・エノキ・ネギ・豆腐)、トースト、お茶。食後にコーヒー、チョコレート。

エディタアプリ『stone』をまた使い始めている。『Ulysses』を使い続けてきたが、ファイル操作のマナーが肌に合わなかった。

タイプライター・モードがないうえに、消えてしまいそうなIカーソルのブリンクを眺めている。そんな『stone』でも、戻ってきた理由はいくつもあるが、今はそれを数えないことにしようと思う。

昼餉は抜き。

9キロをジョグ。公園の紅梅が5分咲き。

街中に微かな香り。今年になってはじめて、春を切望する。

A級動作のパワーアンプを物色している。50年くらい前のやつといえば、真空管と思うだろうが。ど真ん中は気が引ける。

そうやってあれこれ眺めているうちに、熱は冷めていく。それでいいと思っている。

並大抵のことでは、熱病に罹らなくなった。寿ぐべきことだろうか。

夕餉は、豚バラと野菜のポン酢炒め、大根と厚揚げの煮物、味噌汁(人参・小松菜・玉葱・ネギ・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、チョコレート、アイスクリーム。

 

 

簡素

 

晴れ。14度。

8時に起きる。

朝餉は、味噌汁(大根・人参・玉葱・ジャガイモ・ネギ・エノキ)、ポークカレー、紅茶。食後にチョコレート、コーヒー。

簡素であることを知らなかった。今も、かもしれない。

同時に、単純であることも。どちらも、誰もが憧れている。

あれこれ並べても、最後に「さあ、締めてくれ」と言われる。

要するにどうなの、と突きつけられる。

こんなこともある。長い物語を読んでいて、その1行で何かがガラリと変わる瞬間に出くわす。込み入った筋なのに、その1行が屹立している。それが物語の真ん中あたりにあって、その後に楔を打っている。たった1行だぞ、なんなんだ、と思う。

昼餉は抜き。

あれこれと錯綜している構造体なのに、あとから思い浮かべると、なぜだか太い一本の線が背景に見えている。そんなイメージが貼り付いている構造体がある。

それが、簡素だと思うのはなぜだろう。

一方で、単純な論旨に出くわすことがある。単純だ、と思う。

あとで、それをなぞってみる。そして立ち尽くしてしまう。

単純なのに、腑に落ちない。なん度もなぞってみる。

わからない。どうして、腑に落ちないのだろう。そんな時、後頭部のあたりに見え隠れてしている隘路に気づく。

単純だから、隘路なんかじゃないはずだが。論旨はいつの間にか消えている。残っているのは、消えてしまいそうな隘路だ。

真逆のことが残っていると思うのは、なぜだろう。

夕餉は、豚バラと野菜の中華風炒め、ブリの照り焼き、味噌汁(大根・人参・玉葱・ネギ・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、チョコレート。

芥川龍之介の小説『藪の中』は単純な構造体に見える。だが、小説を具体的に説明しようとすると、そのレトリックに触れずにはおられない。構造は単純な顔をしているが、簡素ではないかもしれないと気づく。

『藪の中』は、それが藪の中にあるという構造体によって、記憶に残っている。ほんとうに単純だろうか。はたして簡素だろうか。

 

 

その男、ヴィンス・ギリガン

 

晴れ。10度。

8時に起きる。

朝餉は、バナナとヨーグルト、キャベツ・コーン・パプリカ・大根・竹輪のサラダ、ハムと目玉焼き、味噌汁(大根・人参・玉葱・ジャガイモ・ネギ・エノキ・豆腐)、トースト。食後にコーヒー、チョコレート。

ヴィンス・ギリガン製作のドラマ『Better Call Saul』のシーズン5が今月末から始まる。ちなみに物語はシーズン6まであるという。本家の『Breaking Bad』を超える長尺の物語は、背景にそびえる本家を含めると一大叙事詩と言えるかもしれない。

伏線の回収の仕方が、そのまま物語の陰影に結びついている点において、このドラマは群を抜いている。伏線に使われる小物が大きな役割を演じる。電線にぶら下がったスニーカーとか、クルマのガソリンキャップといった何気ないものが、ドラマをドラマにしていく様は展開の妙である。

詐欺まがいのことを昔馴染みと繰り広げる回など、類稀な短編小説の読後感に似た余韻をもたらすのだが、誰の作風にも通じていないところなど、打ちのめされる爽快感さえある。

昼餉は抜き。

女房は観劇へ。遅くに帰る。

悪に手を染めていく、病を得て死んでいく、立ち向かうために汚れた金を得る、嘘を重ね偽って生きる、矛盾の中で人を殺める――ヴィンス・ギリガンが描く人生は、ままあることの数歩先に待ちかまえている悲劇をちょっと軽く描く。それが、のちのちに重石になって僕らを縛り付ける。

夕餉は、ポークカレー。

悲劇を悲劇として描かない。それは、ちょっとした悲運なのだと言いたげだ。悲劇と悲運の狭間で、僕らは何度も問うことになる。緩慢な悲劇というのが、実は人生を彩っているのではないかと。

ちょこちょこ顔を覗かせる悲運は、その下に蠢く悲劇の瘡蓋のようなものかもしれない。

AppleはOS群の新しいアップデートを開始した。macOSは10.15.4、iOSは13.4のβ1がリリースされている。

ヴィンス・ギリガンが触れる小さい物事は、誰にでも起きる。それが、もたらしている濃い影を前にすると、僕らは声を失う。

 

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実験室

 

晴れ。8度。

8時に起きる。

朝餉は、ほうれん草の胡麻和え、大根の皮のきんぴら、味噌汁(大根・人参・玉葱・小松菜・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、饅頭。

煎ったばかりの豆を挽いて、柔らかい温度の湯で淹れれば、旨いコーヒーが飲める。紙のドリップでもフレンチプレスでもサイフォンでも。

時々で多少の違いはあるかもしれない。でも、そのコーヒーは約束を守っているように見える。

いつ煎ったのかわからない、安い豆をスーパーや酒屋の棚に見つけて、おそるおそる挽いてみる。柔らかい湯を用意して、同じように淹れる。

もし味と呼べるものがその豆にあるとするなら、それを探して、あっちこっちの脇道へ分け入っていく。途中で、道がわからなくなる。そもそも、道などあったのだろうか。振り返っても、戻るべきところは見えない。

運よく、目的地が見つかることがある。たとえありきたりでも、それが景色ならよしとする。奥へと続く道が見えていても、言い聞かせる。

僕らは、おおむね後者を生きる。そもそも、道など見つかった試しはない。コーヒーは、だいたいマズい。マズさの幅は、困ったことに、旨さより幅広い。

昼餉はドーナッツ、コーヒー。

後者は、面白い。

明らかに、負け惜しみだ。

コーヒーに限ったことではないと思う。

いつか、旨いコーヒーを口にすることはあるだろうか。

残りが少なくなった時間を前にしても、そんなことを思う。

安い豆から旨いコーヒーを淹れられる日が、来るかもしれない。

今日も、あれこれ試してみる。金のかからない実験は続く。

夕餉は、大根・コンニャク・竹輪の煮物、大根の皮のきんぴら、塩焼きそば、味噌汁(大根・人参・玉葱・小松菜・エノキ・豆腐)。食後にコーヒー、チョコレート。

 

 

おまえが聴いているのはアルゴリズムか?

 

晴れ。6度。

8時に起きる。

朝餉は、キャベツ・大根・コーン・ゆで卵・梅肉のサラダ、ハムと目玉焼き、味噌汁(大根・人参・玉葱・エノキ・豆腐・ほうれん草)、トースト、紅茶。食後にコーヒー、アイス最中。

NHKの将棋と囲碁トーナメント。

「Audirvana」とか「VOX」といった音楽再生アプリでアップサンプリングみたいなことをやると、スピーカーの様相がガラリと変わる。見くびっていました、と謝りたくなる。小さなスピーカーは、それなりに頑張っている。

一方で、デジタルにまつわる胡散臭さはついてまわる。ドーピングしているスポーツ選手のような気分だ。量子化はソースの補間計算でしかないから、無から何かを生み出すわけではない。カットした部分をあらかじめ用意しておいたアルゴリズムに則して埋めていくだけだ。

その計算がコンピュータに向いているのは論を俟たないが、突き詰めていくと音楽は音楽的ではなくなっていくような気がする。「気がする」というのがこの場合はとても大事だ。僕らは、「気がする」に依って生きているのであって、アルゴリズムに依ってはいないからだ。

昼餉は抜き。

再生芸術におけるソースは、あくまで電気信号の保存という物理現象に尽きる。誤解を恐れず大雑把に言うと、僕らの聴覚さえ電気信号のある種の数値変換をしているに過ぎない。だから、「気がする」を疎かにはできない。どこまで行っても終わりのないことを「気がする」と僕らは平準化して表現している。

僕らという処理装置は、固有の処理速度に依っている。ものすごく高速処理できる人の特定の機能を、僕らはたとえば「絶対音感」と呼んだりする。

だからデジタルをドーピングと十把一絡げに捉えるのはどうかと思う。それでも、僕の機能性はどこかでデジタルを胡散臭いと言っている。そのあたりの不思議さを感じつつ、レイ・ブラウンが空気を震わせているのを目の当たりにすると、アップサンプリングに思いを馳せずにはいられない。

理屈で聴いているようで、とても落ち着かない。常に理屈ありきのような気がするのは、デジタルの責任ではないのに。

夕餉は、ほうれん草の胡麻和え、大根とコンニャクの煮物、鳥ささ身のチーズ挟み揚げ、味噌汁(大根・人参・玉葱・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、饅頭。

 

 

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Ride Again!

 

晴れ。9度。

8時に起きる。

朝餉は、女房の作ったお汁粉、お茶。

昨夜から仕込んでおいた小豆を炊き上げて、甘く煮たところへ焼いた餅をいくつか。久しぶりの女房の味付け。

料理人のYouTubeを見ていると、参考になることがたくさん。弟子入りしなければわからないことばかり。惜しみなく見せていただける一方で、それでも味は盗めないとおっしゃる。そのとおりだけど、それでも見ていないとでは大違いかもしれない。

昼餉は抜き。

長らく忘れていたバーニー・ケッセルのギター。『The Pole Winners』は’57年のリリースで、レイ・ブラウンとシェリー・マンのトリオを超えるギターアルバムは思いつかない。その翌年の『The Poll Winners Ride Again! 』、翌々年の『Poll Winners Three! 』と、このトリオは名声を欲しいままにした。

この人のブロックコードは別物だ。がっしりとした和音がどこまでも均衡していて崩れない。その昔、アーティ・ショウとかチャーリー・バーネットといったビッグバンドのリズムセクションで鍛えられたのだと思う。

ブロックコードといえばもう一方の雄はウェス・モンゴメリーかと思うが、まさに対極にある感じで、指の腹で弦を擦るモンゴメリーのスタイルももちろん素晴らしい。

女房はクワイアの練習。声を枯らして、遅くに帰る。

夕餉は、チャーハン、和菓子、お茶。

 

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異形なる

 

おおむね晴れ。6度。

8時に起きる。

朝餉は、マカロニサラダ、大根・人参・コンニャク・竹輪の煮物、ベーコン、味噌汁(人参・玉葱・ほうれん草・エノキ・ネギ・豆腐)、トースト、ウーロン茶。食後にコーヒー。

異形に魅せられる。

普通じゃないもの。かつて見たことのないもの。近寄るな、という気配を放っているもの。忘れがたいのに、思い出せないもの。暗いところから、逸らさず見つめているもの。芳しくとも、二度と吸い込みたいと思わないもの。語ったり、奏でたり、描こうとして叶わないもの。

誰もが、知っているのに、潜めているもの。

今、背後に潜んでいるもの。

昼餉は抜き。

そこには、モラルも通念も存在しない。ただ在って、動かない。にもかかわらず、触れることは叶わない。

異形と呼んでいるが、果たしてそうなのか。

そこへは、言葉を持って近づけない。

夕餉は、マカロニサラダ、大根・こんにゃくの煮物、味噌汁(人参・玉葱・ほうれん草・ネギ・エノキ・豆腐)、チャーハン。食後にコーヒー、イチゴのロールケーキ。

 

 

ジミー・ジュフリーのクラリネット

 

晴れ。4度。関東の空っ風。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツのサラダ、ベーコンとスクランブル・エッグ、味噌汁(大根・玉葱・ネギ・小松菜・トロロ)、トースト、ローズヒップティー。食後にコーヒー。

こうしてはいられない、とどこかで思っている。

せっかく気持ちの良いことが目の前にあるのに、そんな場合じゃないと思う。しっかり味わえばいいものを、もっといいものがあるはず、という気持ちが貼り付いている。飽き足らないその気分が、目の前にあるものから目を背けさせる。

味わうことの正味を知らないのではないか、と自分を訝っている。

昼餉はナッツ。

冷たい風が吹き抜けて、マフラーも用を足さないほど。子どもを前後に乗せてペダルを漕ぐ若い母親の姿。雲ひとつない空が、恨めしい。

夕餉は、マカロニのケチャップサラダ、女房の鳥の唐揚げ、味噌汁(人参・玉葱・ネギ・ほうれん草・豆腐・エノキ)、玄米ご飯。食後に玄米茶。

味わい方について、そういう悩みを抱えている人はけっこういるのではないか。

ジミー・ジュフリーがジム・ホール、レイ・ブラウンと組んだトリオがいい。

 

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コニー・ケイのハイハット

 

晴れ。13度。

7時に起きる。

朝餉は、切り干し大根煮、ベーコンと野菜の中華風炒め、味噌汁(人参・大根・玉葱・油揚げ・小松菜・ネギ)、玄米ご飯、お茶。食後にコーヒー。

女房はクワイアの稽古へ。遅くに帰る。

このところ、ポール・デスモンドを聴いている。米原で『Easy Living』の「When Joanna Loved Me」がスピーカーから流れてきたら、もう止まらなくなった。『Take Five』はあえて聴かない。デイヴ・ブルーベックとのなら『The Duets』を好ましいと感じるのは、この二人の往還の歴史の所以だと思う。

ジム・ホールが加わっているのはどれも録音が暖かくて、それだけに、寒い日に聴きたくなる。そういう点では、なにはさておき『The Complete RCA Victor Recordings』なのだが、これをバイナルで聴く日は来るんだろうかと考えている。

残念なことに、ジム・ホールがちゃんと鳴っているスピーカーを聴いたことがない。このRevoxでも、ブロックコードがどこか籠もっている。ジャズギターのブロックコードは生半可じゃないのだろうが、いつか、ちゃんと聴きたいと思わせる数少ないプレイヤーの一人かもしれない。

昼餉はナッツをかじる。

パーシー・ヒースとコニー・ケイが刻むリズムがちゃんと鳴っていれば、他に多くを望むことはないのだけれど。

夕餉は、切り干し大根煮、ベーコンと目玉焼き、玄米ご飯。

 

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幸運という名の90歳

 

おおむね晴れ。10度。

10時に起きる。

朝餉は、キャベツと大根・梅干しのサラダ、ベーコンと目玉焼き、味噌汁(人参・玉葱・小松菜・油揚げ・ネギ)、トースト、野菜ジュース、ルイボスティー。食後にコーヒー。

昼餉は抜き。

ジョン・キャロル・リンチ監督の映画『Lucky』。豪華な俳優を揃えた。主演のハリー・ディーン・スタントン、デヴィッド・リンチ、ロン・リビングストン、エド・ベグリー・ジュニア、トム・スケリットとキラ星の如く。スクリーンに顔が映し出されると、途端に物語に命が吹き込まれる。

ハリー・ディーン・スタントンは『エイリアン』とか『パリ、テキサス』、『ワイルド・アット・ハート』、『グリーン・マイル』と忘れ得ぬ演技が並ぶが、これが遺作。ローガン・スパークスとドラゴ・スモンジャの脚本は名台詞の連続で、途中でノートに取ろうと思ったほど。

デヴィッド・リンチつながりの人々が集っている感じがあるとしたら、僕が偏狭ということかもしれない。良い映画だ。

女房はクワイアの稽古へ。遅くに帰る。

夕餉は、野菜とベーコンの中華風オイスターソース炒め、味噌汁(大根・人参・玉葱・油揚げ・ネギ・小松菜)、玄米ご飯。食後にコーヒー。

 

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12時間

 

曇り、時々日差し。13度。

6時に起きる。

朝餉はアンパン。

クルマで女房と自宅へ。高速道路を使わず国道を走る。大部分は23号線と1号線だったが、両方とも区間によっては80キロで走れるクルマ専用道路になっている。大型トラックが横を駆け抜けていくような道だ。見方によっては「ところどころに信号機の付いた高速道路」と言っていい。もっとゆっくりしようと思ったら、幹線国道は避けるべきなのだろうが、何しろ初めてのことだった。

昼餉は、かけそば。

交代で運転しつつ、あっちこっちで休んでいるうち時間はゆるゆる過ぎていく。蒲原から見た富士山は霞んでいたが、ドーンと眼前に迫る。

箱根のあたりで道に迷わなければ、10時間くらいで着いていたかもしれない。

少しずつ腰が痛み始めて往生したのは、女房のリッターカーが街乗りが主のブレッド&バター・カーだから。同じ趣旨の車でも、イタリアのフィアット・チンクエチェントとかフランスのルノー・トゥインゴだと、もう少しだけしゃっきりしているかもしれない。彼らは、安いクルマを作るに際して、金の掛けどころを知っている。

レンジローバーやベンツのシートが恋しくなるが、もうあんな大排気量は乗れないだろうと思う。

夕餉は、お好み焼き、焼きそば、ビール。

疲れてうたた寝。床に就いたのは3時過ぎ。

 

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当たり前の権利

 

晴れ、のち曇り。9度。

8時に起きる。

朝餉は、大根・カボチャ・厚揚げの煮物、キャベツ・大根・竹輪のサラダ、オムレツ、味噌汁(人参・玉葱・カボチャ・ネギ・エノキ・豆腐)、トースト。食後にカプチーノ。

NHKの将棋と囲碁トーナメント。

昼餉は抜き。

統合型リゾート法案をめぐる贈収賄の容疑で立件された国会議員の取調べの様子をマスコミが伝えている。それはもちろん検察がリークしたもので、数百万円の贈賄を議員が全面的に否定しているという。

僕らは、いつの間にかその議員を半ば犯罪者として見ていることに気づく。情報は検察からしか入ってこないからだ。知らず知らず、検察に与する気持ちになっている。

当たり前のことだが、裁判で有罪になるまで、被疑者は無実だ。被疑者が自分だったらと思うとおぞましい気分になる。被疑者の権利は守られているのか。僕らは自分のこととして見なければと思う。弁護士は付いているのだろうか。疑義を否定している被疑者は、どのように語っているのだろう。

この国は、個人の権利をどこかで他人任せにする。大岡裁きという、おぞましい言葉にその気分が隠れている。公権力者が必ず不正を正してくれる。そんな曖昧なものが、正義としてどこかに存在していると信じている。

恐ろしいことだと思う。

夕餉は、女房が作った鍋。

 

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1000年前を知りたい

 

曇りのち晴れ。7度。

8時に起きる。

朝餉は、大根の葉のキンピラ、肉じゃがの残り、味噌汁(人参・玉葱・ネギ・エノキ・カボチャ・小松菜・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、チョコレート。

世界展開している会社にとって、日本に魅力は残っているだろうか。生保選びをしていて思う。行政によって市場が歪められている国は、ある意味では無防備だが、それでも間口は想像以上に狭い。奥行きは無いに等しいように見える。

日本はどこまでも奇異な市場のように思える。奇異だが、それは見方を変えれば強固ということになるのかもしれない。強固だが、だから魅力的かと問われれば、どうやらそれほどでもない。

昼餉は、チョコパイ、コーヒー。

学生の自習室と化した週末のマクドナルド。勉強していないのは僕らくらい(二人して本は読んでいるけど)。

夕餉は、大根・カボチャ煮物、豚バラ・厚揚げ・小松菜の中華風炒め、味噌汁(人参・玉葱・ネギ・エノキ・豆腐・小松菜)、玄米ご飯。食後にコーヒー、黒糖揚げ。

生保は、国を計るときのわかりやすい物差しになる。

国の魅力とはなんだろう。答えは、とんでもないところにありそうだ。

 

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