晴れ。14度。
8時に起きる。
朝餉は、味噌汁(大根・人参・玉葱・ジャガイモ・ネギ・エノキ)、ポークカレー、紅茶。食後にチョコレート、コーヒー。
簡素であることを知らなかった。今も、かもしれない。
同時に、単純であることも。どちらも、誰もが憧れている。
あれこれ並べても、最後に「さあ、締めてくれ」と言われる。
要するにどうなの、と突きつけられる。
こんなこともある。長い物語を読んでいて、その1行で何かがガラリと変わる瞬間に出くわす。込み入った筋なのに、その1行が屹立している。それが物語の真ん中あたりにあって、その後に楔を打っている。たった1行だぞ、なんなんだ、と思う。
昼餉は抜き。
あれこれと錯綜している構造体なのに、あとから思い浮かべると、なぜだか太い一本の線が背景に見えている。そんなイメージが貼り付いている構造体がある。
それが、簡素だと思うのはなぜだろう。
一方で、単純な論旨に出くわすことがある。単純だ、と思う。
あとで、それをなぞってみる。そして立ち尽くしてしまう。
単純なのに、腑に落ちない。なん度もなぞってみる。
わからない。どうして、腑に落ちないのだろう。そんな時、後頭部のあたりに見え隠れてしている隘路に気づく。
単純だから、隘路なんかじゃないはずだが。論旨はいつの間にか消えている。残っているのは、消えてしまいそうな隘路だ。
真逆のことが残っていると思うのは、なぜだろう。
夕餉は、豚バラと野菜の中華風炒め、ブリの照り焼き、味噌汁(大根・人参・玉葱・ネギ・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、チョコレート。
芥川龍之介の小説『藪の中』は単純な構造体に見える。だが、小説を具体的に説明しようとすると、そのレトリックに触れずにはおられない。構造は単純な顔をしているが、簡素ではないかもしれないと気づく。
『藪の中』は、それが藪の中にあるという構造体によって、記憶に残っている。ほんとうに単純だろうか。はたして簡素だろうか。