おまえが聴いているのはアルゴリズムか?

 

晴れ。6度。

8時に起きる。

朝餉は、キャベツ・大根・コーン・ゆで卵・梅肉のサラダ、ハムと目玉焼き、味噌汁(大根・人参・玉葱・エノキ・豆腐・ほうれん草)、トースト、紅茶。食後にコーヒー、アイス最中。

NHKの将棋と囲碁トーナメント。

「Audirvana」とか「VOX」といった音楽再生アプリでアップサンプリングみたいなことをやると、スピーカーの様相がガラリと変わる。見くびっていました、と謝りたくなる。小さなスピーカーは、それなりに頑張っている。

一方で、デジタルにまつわる胡散臭さはついてまわる。ドーピングしているスポーツ選手のような気分だ。量子化はソースの補間計算でしかないから、無から何かを生み出すわけではない。カットした部分をあらかじめ用意しておいたアルゴリズムに則して埋めていくだけだ。

その計算がコンピュータに向いているのは論を俟たないが、突き詰めていくと音楽は音楽的ではなくなっていくような気がする。「気がする」というのがこの場合はとても大事だ。僕らは、「気がする」に依って生きているのであって、アルゴリズムに依ってはいないからだ。

昼餉は抜き。

再生芸術におけるソースは、あくまで電気信号の保存という物理現象に尽きる。誤解を恐れず大雑把に言うと、僕らの聴覚さえ電気信号のある種の数値変換をしているに過ぎない。だから、「気がする」を疎かにはできない。どこまで行っても終わりのないことを「気がする」と僕らは平準化して表現している。

僕らという処理装置は、固有の処理速度に依っている。ものすごく高速処理できる人の特定の機能を、僕らはたとえば「絶対音感」と呼んだりする。

だからデジタルをドーピングと十把一絡げに捉えるのはどうかと思う。それでも、僕の機能性はどこかでデジタルを胡散臭いと言っている。そのあたりの不思議さを感じつつ、レイ・ブラウンが空気を震わせているのを目の当たりにすると、アップサンプリングに思いを馳せずにはいられない。

理屈で聴いているようで、とても落ち着かない。常に理屈ありきのような気がするのは、デジタルの責任ではないのに。

夕餉は、ほうれん草の胡麻和え、大根とコンニャクの煮物、鳥ささ身のチーズ挟み揚げ、味噌汁(大根・人参・玉葱・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後にコーヒー、饅頭。

 

 

img8.png