「たけたる位」の意味

 

 

 

 

 

 

晴れ。17度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(パプリカ・大根・サニーレタス・キャベツ・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・シメジ・玉葱・大根・人参・油揚げ・豆腐)、バゲットのクロックムッシュ、アールグレイ。食後にコーヒー。

この国で売られているバゲットは、本来はバタールに近い気がする。バゲットというにはちょっと短いし軽い。バタールというにはちょっとだけ長くて重い。いっそフルートくらいのやつをバゲットと呼んでいるパン屋もある。ふにゃふにゃのバゲットでクロックムッシュを作ろうとしたらべちゃっとなってしまう。ミルクと卵の塩梅、それとチーズの多寡。自称バゲットの断面をにらんでいる朝。小さくてはかなげなことにこそ物事の本質がひそんでいる、と自称バゲットが語りかけてくる。

偉そうに、と思う。

志村ふくみさんの著から、ちょっと長いが――

 

 六十の手習いというのは、六十歳になって新しいことを始めるという意味ではなく、今まで一生続けてきたものを、改めて最初から出直すことだと言う。もしかなうならば、私にとって今年がそんな年であってほしいと願っている。

 今まで夢中で山道を登ってきたつもりが、よく見ればいかほどの峠にさしかかったわけでもない。もう一度山の麓に立って登り直す方がずっと魅力的だと思うわけは、要するにもう一度あの、わくわくした新鮮な驚きをもって仕事をしたいのである。体の方はガタがきて、方々がきしんでいるにちがいないが、そんな体をいたわってはいられない。なんとかだましたり、すかしたりして山を登らせようとたくらんでいる。

 

   綾織の 緯糸こそは苦しけれ

     一つ通せば 三つ打たれつ

 

 大本教の出口王仁三郎氏の歌ときいているが、実際毎日毎日三十年の間ほとんど休む間もなく、とん、とん(私の場合は二つ)緯糸を打ち、筬を鳴らしてきた。緯糸が左右に行き交うのは我々の生の営みそのものであり、喜び、悲しみでその日その日の色彩がちがう。一反を織るのに八万回打つとすれば、おそらく何千万回も打っているだろう。まさに打ちつ、打たれつの日々である。

 そんな単調なくりかえしの中にひそんでいる魅力とはなんだろう。少しもいやにならないどころか、多忙で機に向かえない日はなんとかして機にしがみつきたいと一日思っている。そして今年あたりもう一度初めから出直したいと思っている。しかし言葉では言えても現実には大変な作業だと思う。ほとんど不可能だということもよく分かっている。

 暮れにいただいた白洲正子さんの『老木の花 名人友枝喜久夫の能』の中に、こんなことが書いてあって深く心にとまった。

 世阿弥の至花道書に「闌位事」という一段があって、たけたる位ともいい、みだり、たけなわ、やりかけ、まばらなどという意味で、いずれも不完全という言葉だという。

 しかもそれは単なる不完全ではなく、「芸の奥儀を極めたシテが、ときどき異風(変わったかたち)を見せることがあるが、面白いと思って初心者が安易に模倣してはならない。そもそも『たけたる位』とは若年から老年に至るまで、あらゆる稽古をしつくした人間が稀に演じる非風(悪いかたち)なのである」と言うことである。その非風がある瞬間、是風(正しい形)になるという。

 わざが自己を離れ、芸の枠を超えて自在になる。名人上手が完全無欠な芸を見せても面白くない。そこになにかドキッとさせられる一陣の異風が立ちあらわれ、我々の悟性をひっさらうのである。

 すべて仕事をするものにとって、願う彼岸、終極の姿ではないか。

 今さら、六十の手習いなどといって、最初から出直すなど不可能なことだと決めてしまってはいけない。たけたる位を遠い彼岸のこととしてあきらめてしまってはならない。人生は六十より七十、七十より八十に素晴らしい秘密がありそうに思える。

 

昼餉は、中華スープ、ひき肉と野菜の焼きそば、コーヒー。

青葉市子へのインタビューによれば、彼女は高校生から本格的にガットギターを弾きはじめたという。学校から帰ったら、すぐにギターを抱えて食べるまも惜しんで弾いていた。寝るときは抱えて寝た。そのガットギターを今も弾きつづけている。安くて小さいガットギターを見る彼女の目は、同志を見るようだ。

どこかの誰かが作ったモノに自分を委ね、任せきる。そういう人生を、彼女は自分で選んだ。誰かがそっと耳もとで囁いていたとしても、彼女はそれを疑わなかったのだ。

妻の作った夕餉は、グリーンレタスのサラダ、玉葱のコンソメスープ、キーマカレー。ウィスキー・オンザロック。