晴れ、のち曇り。28度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・リンゴ、キャベツ・レタス・大豆煮・カニカマ・バジルのサラダ、味噌汁(レタス・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、バタートースト、麦茶。食後にコーヒー、クッキー。
説明はむずかしい。言葉で説明するのは不可能に近い。かといって、絵ならわかりやすいわけではない。動画となるともっとわからないこともある。
たとえば、紐の結び方。簡単だと言われる「てこ結び」でさえ、いざ説明しようとして、ときに絶望する。たった3つか4つの段取りしかないというのに。料理もそうだ。計量どおり時間どおりが、旨さを保証することはない。旨さへ導くポイントは、山ほどあるのだ。
簡単だと言われることが、ハードルを高める。説明は、まず、不可能な行為なのだと思わないことにはハードルは下がらない。教える側の絶望がまずは伝わること。説明の第一歩は、これしかないように思う。
絶望を知らない御仁の説明を聞くのは、骨が折れるのだ。説明の下手さ加減に辟易したことのない人はいない。誰もが、うんざりして説明を聞いたり見ているのに、いざ自分が説明する立場になった瞬間、そのうんざりをどこかへ置いてきてしまう。話し上手ではないし、聞き上手ではない。自らを知って、まず絶望することくらいしか、僕らには許されていないのだ。
昼餉は抜き。
絶望したところで、なにかが変わるわけではない。絶望はずっと絶望のままだ。用心して説明したところで、うまく伝わるわけがない。絶望しているのだから、うまくはいかない。相手のがっかりや、困惑が伝わってくる。ルイ・アラゴンの「教えるとは、希望を語ること。学ぶとは誠実を胸に刻むこと」が恨めしく響く。
説明は、生きることと同義といってもいいくらいだ。僕らは、する側にもされる側にもなる。立場は逆転しても、鬱陶しさは同じだ。
旨いペペロンチーノの作り方を教えてよ――。それに対する答えを僕はいくつか用意している。相手を観察することで、そこからふさわしいと思われる答えを選び取る。僕のペペロンチーノを食べている最中に尋ねられたとしたら、僕は答える。
こんな作り方を教えるほど、僕は厚かましくないよ。
実は、基本はこれだけだ。相手をいくら観察したところで、答えが変わるわけはない。絶望から這い上がろうとしないこと。それを守り通すこと。そうすれば、少なくとも、相手を困らせることにはならない。
絶望は、心構えの基本である。
――と、説明の困難さについて説いたこの文章は説明として十全なのだろうか……。
夕餉は、冷や奴、フレンチフライ、マカロニサラダ、切り干し大根、玉子丼、味噌汁(玉葱・人参・豆腐・レタス)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後に月見団子、アイスコーヒー。
雲間から満月。