カロミ

 

雨、のち曇り。12度。

7時に起きる。

朝餉は、厚揚げと小松菜の生姜炒め、卵焼き、味噌汁(ボタンエビの頭・大根・人参・小松菜・油揚げ・豆腐)、ご飯、リンゴとバナナのヨーグルトがけ。食後にコーヒー。

妻は、クワイアの稽古や打ち合わせに。夜に帰る。

デパートで買い物。書斎で焚くお香、敏感肌用のオールイン・ワン・ジェル、文房具など。目当てのリフィルは見つからず。

昼餉は、ポテトチップス、煎餅。

いろいろ焚いてきたが、ごく控えめが好みになった。お店によっては沈香とか檜でも甘みがおもてにあらわれる。沈香ならなんでもというわけではないし、日本製がいいとも一概には言えない。

燻らして、すぐはいいのに、数日するといけなくなるものが増えた。最後の最後まで崩れない、そんな佇まいに巡り会いたいと思いつつ、手頃なものから選ぶのも愉しくはある。

どんなものにも、純度がある。

純度が上がると、澄んでいく。それに従い、軽みが増してくる。不純のうちは、重いのだ。重々しさは、見ようによっては得難く感じる。だが、それは鬱陶しい。

澄んいくと、見透せるようになる。見透しは、明るさを招き寄せて、周囲の重力が消えていく。軽みとは、そういう意味のことかと思う。見ようによっては、安っぽい。扱いも、つい雑になりがちだ。雑に扱われても、純度はつねに上がり続けて、やがて無重力に近づいていく。

夕餉は、塩ラーメン、ご飯。

ガツンと来る、という。

味も絵も音も、そういう出会いがある。ヒトにも、あるらしい。「ガツンと来ましたよ」と表現されると、なんだか有難い。嬉しくなる。

そんなものなのかなと思うことが、でも、最近は多くなった。ガツンと来なくていい、フワフワと浮いているような出会いはないものかな、と思う。

ちょっと悩ましい。そんなふうなのがいい。

迷うくらいで、丁度いい。ガツンと来てもらっては、鬱陶しいのだ。

「軽み」と書いて、カロミと読む。カロムとは、侮るとか馬鹿にするという意味で使うが、それくらいのほうが愉しい。もしやして、と気づくこともあればいい。やがて、ハッとするのもいい。気づかなくてもいいし、ハッとしないまま終わるのが慎ましい。よほど、好ましい。

バカじゃなかろうか——とりあえずは、そこからである。

長い目で見ると、続いていくものは、そんなものやも知れぬ。

 

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