その丁寧が掠奪していくもの

 

 

 

 

 

 

晴れ。10度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(大根・キャベツ・チーズ・カニカマ・バジル)、赤蕪のミルクスープ、バタートースト、アールグレイ。食後にコーヒー。

ベツレヘムは、人の気配が消えていると海外のテレビニュースが報じている。

いちばんそばにいる人のことを見失わなければ、僕らは幸せでいられる。誰もが見失うし、見失いかけて気づく。人生にはさまざまな物事が複雑にからまっている。そう思っているし、そう信じてもいる。社会は複雑なのだ、と。

間違いのない物事を丁寧に説かれる。複雑さを、丁寧にときほぐして説明すればかならずわかってもらえると言わんばかりに。僕らは、時間をかけて丁寧な説明に耳を傾ける。丁寧な説明書に目をとおす。そうしていると、複雑さは簡潔になっていく気がする。

丁寧という言葉が何気なく使われる。丁寧は、真っ正直という衣をまとっているような気にもなる。

だが、その丁寧はこちらへの心配りではない。時間をかけて、ほかの物事から僕らを隔離しようとしている。ともに生きている人を見守っている、その視線の時間さえ奪っていく。その視線だけで生きていくことができるのに、複雑なほうへと導かれていく。丁寧な言葉の多くが、僕らを苦しめていく。

昼餉は、天かす・ほうれん草・カニカマを添えた温かいうどん。

いつのまにか僕らは、丁寧ということに苛立ちを覚えている。そんなことに気づいても、僕らは疑いなく、丁寧に生きるという言葉を今日も使う。そして、目の前にいる人を見ているのか疑心暗鬼に陥ったりもする。

夕餉は、納豆、切り干し大根、ポテトサラダ、シマホッケ焼き、味噌汁(溶き卵・シメジ・ネギ・大根・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。

今日は8キロほど、近所を妻と歩く。赤と緑の飾り付けがめっきり減った。子どもたちはどんな夜を過ごしているのだろう。