ぶっ飛ぶ、ということ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。26度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・リンゴ、キャベツ・キュウリ・ツナ・大根・バジルのサラダ、味噌汁(小松菜・キャベツ・玉葱・人参・油揚げ・大根の葉)、チーズ・ハム・レタス・卵焼きのトーストサンドイッチ、アールグレイ。

進化論を唱えたあの人……名前が出てこない。茹でて食べる菜の花のおおもとの野菜……やっぱり出てこない。

今さらなので深掘りはしないけれど、喉元に溜まっていく名前たちは、溜まってばかりではないのだと思うようになった。溜まってばかりでもいいのだけれど、あるとき何かの拍子に脳の回路がつながる、その瞬間がいいのだと。

それはパラダイムと言っていいかもしれない。科学史における不連続性という意味だと思うが、その連続していないところが大事なのだ。突然に言葉が出てくるのもパラダイムっぽいのだと思う。その突発性さえあれば、忘却期間はなにかの贈り物といってもいい。そう思い定めることがポイントなのだ。

さて進化論はtheory of evolutionの訳だが、evolutionを進化と訳したのがそもそも良いことだったのか、と思う。もっと言えば、ダーウィンは(そうそう彼はダーウィンだ)、ずっとtransmutationを使っていたらしい。

進化という言葉を使うほとんどの場合とか、ほとんどの人は、進化論の進化という言葉を誤用している。進化を進歩という意味で使っている。意識していないけれど、よく聞いているとそれは進歩のことなのだ。だが、ダーウィンは進歩という概念で自分の理論を展開してはいない。

進歩したというのは、劣っていたものが優れていくという文脈で使われる。

だがダーウィンの進化は、自らを作り変えるという意味で使っている。優れた方向へ変化しているかどうかはわからない。が、作り変えていくという点は明らかなので、そのことを進化と呼んでいる。

要するに、兎にも角にも変化していくことをあらわす言葉として進化を使っているにすぎない。いっそ変化論と言ったほうがわかりやすい。

進化は、進歩のことじゃない。

日本で思われている進化論は、実は進歩論なのである。ダーウィンは、もちろんそんなことはひとかけらも唱えてはいない。

というより、そう誤用されることをダーウィンは心配していたかもしれない。英語においてさえ、evolutionを使いはじめたのは『種の起源』の初版から実に13年後のことだ。

昼餉は、菓子パン、コーヒー。

僕らは初歩的な誤用をして、それを大事なスピーチや原稿で誤用のまま使っている。使う方も、読んだり聴く方も、そのことに気づかないのだから、別に良いじゃないかという気にもなる。

だが、すべての生物は善き方へ、今よりもっと優れた方向へ間断なく向かっている、それが生きとし生けるものの生まれてきた証だと思って、なにやら人生論を繰り広げている偉い人のなんと多いことだろう。

その人生論は、本来の進化論を援用するなら、まったく違う意味になる。

すべての生き物は、生きるためにとりあえず自らを作り変えている。それが、正しいことかどうかは、その時点ではわからない。とりあえず作り変えているだけだ、正しいことかどうかは誰にもわからない――ということになる。進化論の要諦は、そういうことである。

そして、こっちの本来の意味を使った人生論の方が僕は好きだ。とりあえず変わるんだ。変化は、すべて突然にやってくるのだから、あとは知るかという、行き当たりばったりの人生論だが、それが人生というものの本質ではないかと、逆に思うのである。

だから進化論の誤用のおかげで、誰も気づかぬうちに、進化論はぶっ飛んだ意味を内包したまま使われているということに至る。

夕餉は、納豆、冷奴、小松菜・厚揚げの生姜炒め、味噌汁(小松菜・キャベツ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、赤ワイン。

瓢箪から駒はまだ出ていない。いや、すでに出ているのに、誰も気づいていない。あまりにも深遠なのでクラクラする。

そして、ここが大事なのだが、ブロッコリーという名前が突然出てきた、その瞬間がまさに進化だと思うのである。

世に、菜の花という特定の花は存在しない。キャベツもブロッコリーもそこに咲く花は、菜の花と呼ぶ。菜につく花だから菜の花なのだ。そこに特別な意味は一つもないのである。

進化論といい、菜の花といい、逆の援用がまかりとおっている。この世の不思議を思う。