自然はロマンティストではない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。24度。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツ・大根・カニカマ・チーズ・バジルのサラダ、ハムと目玉焼き、味噌汁(サツマイモ・玉葱・人参・ネギ・キャベツ・油揚げ・豆腐)、生クリームと餡子のパン、アールグレイ。食後にコーヒー。

村上春樹さんの新刊、読後文がネットにアップされはじめている。いつか来た道を性懲りも無くなぞるのかというのが否定派の文脈、そうかもしれないけれど、今回も得るところ大ではないのかというのが肯定派。この叩き合い、表現の違いこそあれ、様相は毎度のことで。

半年後か1年後か、はたまた3年後か、古本屋に出回ってからか、図書館の手垢のついたのを読んでからでもと思う大部分の人の言葉が聞けるのは、もっと先になってからだ。

昼餉は、ミルクをかけたシリアル、羊羹、紅茶。

札幌の姉から電話。今月初めに胃腸のポリープを切除をしたとのこと。声は元気そうだが。

母の一周忌や菩提寺の本殿建て替えのことなど。

 

『ファーブル伝』を読んでいると、物語を結末から読んでいるような気分になる。自然の調和はとてつもない均衡に基づいていると、ルグロ博士は語る。

自然は均衡など求めてはいない。なにも求めてはいない。意志は存在しない。果てしない破綻と均衡の往還を繰り返しているに過ぎない。破綻の途上にある種もあれば、乗り越えて均衡を得た種もある。だが、それは常に途中経過でしかない。熱量の法則を拝借すれば、エントロピーは常に増大へ向かう。混沌は、さらなる混沌へ向かう。

『ファーブル伝』では、ダイナミズムの一瞬を切り取って、それを調和と称する。

当たり前のことだが、突然変異がピタッと終わることはない。そして、特定の種が繁栄しつづけることもない。繁栄は混沌を招き寄せ、やがて崩壊して新たなる種へと変異し続ける。

調和しているように見えるのは、尺の短い映画を見ているのと同じだ。もっとも、尺の長さを決めることは誰にもできない。

ちなみに、ジャン=アンリの見方をルグロ博士は以下のように書いている。

 

 ファーブルは、世界の秩序のなかに、いわゆる“完璧さ”を見ようとはしなかったし、“自然”というものを、トルストイが言っているような「美と善のもっとも直接的な表現」とはけっして考えていなかった。それどころか彼は“自然”を、神が試行錯誤しながら描いた粗野な下絵のようなものにすぎない、と思っていたのだ。この神は、姿こそ隠れていて見えないが、われわれのすぐ身近にいて、さまざまな創造物のなかに永久に現前しているのである。

 

(中略)

そしてなぜ、「善の毒」である“悪”が、あたかも不滅の寄生者のように、ありとあらゆるところで、生命の根源に忍び込んでいるのであろう。

 

善の毒は、キリスト教の自然観を表している。閉じた環としての均衡を神の創造として見る。そのどうしようもない閉塞性を、ジャン=アンリはどこかで見限っていただろうに。『ファーブル伝』の著者は、この点について言及を控えている。

夕餉は、厚揚げの玉葱・人参・アオサ・カニカマのかき揚げをのせた温かい蕎麦。