異物を抱いているということ

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。7度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴとバナナ、キャベツ・大豆・カニカマ・青さのサラダ、味噌汁(玉葱・人参・ネギ・キャベツ・油揚げ・豆腐)、ハムと玉葱のピザトースト、アールグレイ。

昨日の続きになるが、脳の言葉だけを聞いていると、ヒトはいつの日か自らを滅ぼすことになる。どうせ死ぬのだから、と放っておくと本来の生をまっとうできなくなる。

脳の言葉は純度の高い欲望のかたまりなので、たとえば、もっと食べたいという声に従っていると寿命は尽きる。

脳の欲望と対峙するには、ヒトはあまりにか弱い。

宗教は、脳を一時的にせよ遠ざける装置として作られたものだ。

天国とか地獄といった世界観と、そこへ至る欲望との対峙のあり方は、どんな宗教でもあつかうお題目だが、欲望をいかに制御するかという歴史は宗教の歴史よりはるかに長い。

宗教という装置を生み出したのも脳に違いない。だが、身体の外に置くことを考えた人は、そこで脳との対峙の方法をあみ出したかに見える。

宗教は信じるか信じないかである。信じる人は、脳との距離を装置によって目論む。信じない人にとって脳は直結した欲望だ。

宗教には脳を拒絶する象徴として地獄がある。欲望に囚われると、そこへ堕ちる。帰依するというのは、脳を拒絶するということだ。

昼餉は、きな粉餅。

脳は宗教の中にも忍び寄っていく。

禅問答というワケのわからない言葉の集まりがある。侵入してきた脳をあらためて遠ざかるには、意味の無意味化でもやらないことにはどうにもならない。ヒトはか弱いのだ。

禅問答を読むと、そのか弱さがわかる。ヒトは答えをさまざまに考えるが、だいたいは意味のわからない答えを突きつけられる。その無意味性を全身に浴びなければ、脳を退けることは容易ではない。

夕餉は、鶏肉団子・白菜・人参・焼き豆腐・ネギの豆乳鍋(仕上げにおじや)、ビール、赤ワイン。

脳は己れの内なる器官だが、同時に別物なのだという意識があるのとないのとでは、ひょっとしたら大きな違いかもしれないと思う。

全身における脳のエネルギー消費量は突出している。一方で、脳が働いている部分は全体の3割という報告もある。残り7割が働いてないと考えるのは、ずいぶん呑気な話しに思えてならない。