ごくたまに届くこと

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。6度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ、キャベツ・大豆・カニカマ・青さのサラダ、味噌汁(玉葱・ネギ・人参・キャベツ・油揚げ・豆腐)、卵焼きとハムのトーストサンドイッチ、アールグレイ。

5月8日をもってコロナウィルスは第5類へと格下げになる。季節性のインフルエンザウィルスと同等の扱いだ。マスクをするしないは個人の判断に委ねられる。

罹患者も死者もそうとうの数にのぼっているときだが、それらの大半は高齢者であり、若年層はほとんど罹患していない、罹患したとしても重症化はさらに少ない。マスクがほぼ役に立っていないことは、世界的な了解事項になっている。この国の人々は医者の言葉を信じてきたが、科学的な知見は上記の2点に絞られている。ところが、具体的な説明はどこにも見当たらない。

知見の詳細を披瀝することなく、この国は2類相当から5類への格下げを発表した。5月からという。ちなみに、マスクの着用は常にお願いのかたちをとってきた。お願いとはなにを意味するのだろう、と人々は一度は思った。

この国はいざとなれば、お上の願いが下へ向けられ、庶民がそれを受けてなんとかしてきた。息苦しいことこの上ないが、コロナの最初からすべてを知っていた人はいない。だから、お願いするのである。その先は、自分で判断してくださいということも、だから帰結として仕方ないのかもしれない。

相手は高い感染力をもつウィルスである。先のことをだれがわかるだろう。と、人々は胸の底を覗き込んで思うのである。

 

昼餉は、クリームパン、ジンジャー・ターメリックティー。

欲望を生み出しているのは、脳である。

もっと食べたい、と思うのは脳の言葉である。もっといい暮らしがしたい、と思うのもそうだ。もっと~したいと思うのは脳の言葉だが、それが身体にとってほんとうに望ましいことかどうかまではわからない。

脳は身体に縛られていることをどう思っているだろう。脳の生み出す言葉は、僕らの思っている言葉と直結しているようでいて、そうではない。本来の言葉は、脳とは違う場所から発せられ、数多あるどこかの器官に届いていることもある。それを聞き届けられるかは、その人の生き方に依っている。

肝臓の言葉、腎臓の言葉、血液の言葉、そういうものはちゃんとある。ちゃんと聞こえているだろうか。

夕餉は、キャベツの千切りと人参のグラッセを添えたハンバーグ、味噌汁(ネギ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、赤ワイン。食後に落花生、焙じ茶。

あるとき、その言葉の存在を知って愕然としたことが何度かある。耳を澄ませても、必ずしも聞こえてこないのだが、暮らしているとごくごくたまに届くことがある。

受け取ることができれば、そして、その言葉に従っていれば、僕らの暮らしはなんとかなるのである。受け取るということを、僕らは人生における節目という捉え方をしてきた。

折々の節目。

それは身体の声を受け取り、それに応えたという事後報告のことだと思う。