たまには臍で見る

 

 

 

 

 

 

 

 

曇り、雪が舞う。4度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ、キャベツ・大豆・カニカマ・アオサのサラダ、ハムと目玉焼き、味噌汁(キャベツ・玉葱・人参・ネギ・油揚げ・豆腐)、バタートースト、アールグレイ。

小林秀雄著『本居宣長』より抜粋――

 

 景山に「不尽言」という著作がある。これを読んでいた事には確証があり、研究者によっては、宣長の思想の種本はここにあるという風に、その宣長への影響を強調する向きもあるが、私は、「不尽言」を読んでみて、むしろ、そういう考え方、影響という便利な言葉を乱用する空しさを思った。「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。古典の意を得るには、理による解を捨て、先ず古典の字義語勢から入るべき事、詩歌は人情の上に立つという事、和歌という大同に伝授の道はない事、わが国の神道というものも、日本の古語を極めて知るべきものであり、面白く附会して、神道を売り出すのは怪しからぬという事、等々。しかし、このような見解は、すべて徂徠の物であると言う事もできるし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのも亦容易なのである。見解を集めて人間を創ることはできない。「不尽言」が著しているのは、景山という人間である。例えば、「総ジテ何ニヨラズ、物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ、味噌ノ味噌クサキ、鰹節ノカツヲクサキ、人デ、学者ノ学者クサキ、武士ノ武士クサキガ、大方ハ胸ノ悪イ気味ガスルモノナリ」、そういう語勢で語る景山であって、その他の人ではない。それは、大藩の儒官として、学芸の中心地に、大ように暮らし、儒学の新旧、流派になずまず、和学の造詣も深く、医学にも通じ、琵琶の名手で、和歌を好み、詩会とともに歌会も開くという、鋭敏で寛大な、一級の教養人の顔である。こういう人に宰領された塾の雰囲気の中で勉強し得た宣長の幸運を否む事は出来ないが、この「物ノ臭気」を嫌った学問上の通人に、彼が驚きを感じた事はなかったろう。

 

昼餉は、妻の作ったチーズトースト、チャイティー。

目が落ち着く、ということがある。店に入ってしばらくは、見えているようで見えていない。僕の場合は、その状態が30分くらい続くこともある。食材ならそれくらいもあれば買い物は済んでしまう。下手をすると、見えていないままで買い物を済ませていることになる。

少し我慢して、見るともなしに見ていると棚のあれこれが見えてくる。それから買ったほうが、帰ってからの愉しみがあるみたいだ。

目は、気づかないうちに、見えるものしか見ていないのだな、と思う。

妻は、棚を前にしてむやみと時間をかけているように見えることがある。そのことをいつも思う。目が落ち着くのを待っているわけではなさそうな妻の姿がある。

百聞は一見に如かずというけれど、その一見が当てになるとは限らない。

テレビよりラジオが落ち着く背景には、そのあたりの事情もありそうだ。

もうひとつは、本を読んでいると出くわすことだが、意味が掴めないことがままある。難しい本が相手だと、読解力の無さにうんざりしてしまい、ともすると、本のせいにしがちだ。その本を書いた人のせいにすることもままある。

どこかで諦めてしまって、それからもなお読み続けるのは苦痛をともなう。それでも飛び込んでくる文字がたまにあるから、それを求めて読んでいるときがある。その期待は、多くの場合、裏切られる。最後のページをくって、がっかりする。眠気と戦って、だいたい負けていたから、きっとどこかになにかが隠れていたに違いない。見過ごしたのだ。残念なことをした、と思う。記憶には、その後悔が残っている。

ところが、あるとき、本棚を見ていてその本を手に取る。パラパラとめくって、そのページに目が止まる。気づくと、時間がずいぶん経っている。

覚えていない。だが、どこかに刻まれている文字とかページがあるのかもしれない。読むということの奥に潜んでいるあれこれは、すぐに答えてはくれない。

すぐ答えてくれない。そのことが、とても大事なのだと思う。読書は、まわり道への誘いかもしれない。とりあえず、ページを繰るしかない。まわり道なのだから、と諦めて文字を追うことでしか得られないことはたくさんありそうだ。

ないかもしれない、けど……。

夕餉は、大根の皮の漬物、鶏肉団子・白菜・焼き豆腐・ネギ・人参の豆乳鍋、赤ワイン。食後に落花生。

何事も、益ばかり求めているとろくなことにならない。