想像の域をでない、その喪失感

 

 

 

 

 

雨、のち曇り。15度。

7時に起きる。

朝餉は、味噌汁(小松菜・シメジ・油揚げ・豆腐・大根・玉葱・人参)、レタス・トマト・チーズ・キュウリ・卵焼きのサンドイッチ、紅茶。食後にコーヒー。

同じモノか、似たモノ、ないしは方向性が軌を一にするモノ。なぜか、一つだけで済ますことがない。買い物はそうやって増えていく。一つだけだと落ちつかないのは貧乏性のあらわれだというヒトもいる。

整理していると、そんな性癖に手こずらされる。

 

アレっ、さっきもあったぞコレ……。

 

ふたつを前にして、うんざりするのは僕一人ではあるまい。

フィリピンで悪名を馳せた大統領の息子が、最近の選挙でなぜか大統領に選ばれた。彼の母は、何百足という高級ブランドの靴を買い漁っていたことで国民の怒りを買った。そんなに買い込んでも、まだ欲しかったのだろうと思う。

はなはだ失礼な物言いだけれど、その気持ちが少しわかる。彼女は、深刻な病にかかっていたのだ。

僕の2度買いも問題を抱えていた兆候だと思う。治りきっていないのか、それが時たま顔を覗かせる。

真っ先に浮かぶのが、彼女の顔だ。

幸いなことに、僕には追われるような要職も、人格を否定するような見も知らぬ人々もいない。

ただ一人、妻がどう思っているのか。こわくて聞けない。もっとも恐れているのは、そんなことはまったく気づいていないということだ。妻はどこを見ているのか、あるいは見ていないのか。妻の底知れぬおおらかな笑顔がちらつく。

 

この世には、どこの誰かが丹精込めて拵えたモノがある。それに巡り会えたときの喜びは、その後の人生を彩る襞の陰影となる。そのモノが手元から離れたあとも、手触りや匂い、音、優美な線が身体に残っている。

ヒトに限ったことではないのだ。

カタチあるものはいつか壊れる。そのときの哀しみを味うくらいなら、と考えてしまう。自分が消えてしまうことは受け入れられるのに、と思う。

喪失感に抗う不思議な抵抗だと思う。

妻の作った夕餉は、もやし・小松菜のサラダ、味噌汁(大根・玉葱・油揚げ・人参・豆腐)、ビーフカレー、ウィスキー・オンザロック。食後に水饅頭、ほうじ茶。