脆さは、それゆえに

 

 

 

 

 

 

おおむね晴れ。7度。

8時に起きる。

朝餉は、バナナ、みかん、ブルーベリージャムを塗ったトースト、ミルク。

専制国家や独裁国家から見れば、官吏がつねに為政者を補佐する間接民主主義は自分たちと大差のないシステムに見えるだろう。職業化した代議員が、都合のいい為政を官吏といっしょになって行う。彼らには、そう見えている。

民主主義という言葉の危うさは、僕らより彼らの方が見ている。官吏の専横を監視するシステムが働いているか、議会が本来の機能を発揮している間接民主主義は、彼らから見れば途方もない時間をかけなければ実現しないように見える。その間も為政は続くというのに、なんと悠長なことだろう。

この国の間接民主主義はポピュリズムに陥って、大きな戦争を招いた過去がある。為政者が勝手に戦争をはじめたのではない。ポピュリズムの恐ろしさは、つねに国民が己の懐に知らずに狂気を招き入れることにある。そんな恐ろしい病癖を抱えていても、民主主義は理想のシステムだと言えるのか。彼らの言い分はそこにある。

夕餉は、鯖水煮、ご飯、味噌ラーメン、ビール。

国会を見ていると、この国の代議員たちは無能に見える。有能なものも無能に見えてしまう。議論が議論に見えないのは、官吏が裏で支配している。そう思ってしまう。ポピュリズムの発芽が、その心理に根を這っている。そのことを強く感じる。

民主主義は危うい。それを忘れまい、と思う。委譲はするが、信頼はしない。根っこにあるのは不信である。誰かに託すというのは、だから信じているということとは違う。間接民主主義とは、託すことと監視することが表裏となった投票券を国民が持っている、それを行使できるかのような制度があるという、あくまで脆いシステムのことだ。

最近、そのことを強く感じる。一人ひとりが民主主義という制度を理想であるかのように思う。そういう教育が行われはじめたら、制度は崩壊しはじめている。

つねに磨き続けなければ、脆いのだと教え続けなければ、教育は本来の機能を果たしているとは言えないだろう。

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