六次の隔たり

 

 

 

 

おおむね晴れ。33度。

6時に起きる。

冷たいほうじ茶、アイスコーヒー。

5話のドラマは、黒沢清監督の『贖罪』。原作は湊かなえ。

贖罪は2番目のテーマかもしれないし、もっと言えば、贖罪という言葉を捉え違えている。

有りあえない接点なのに、巡り合ってしまう。業という確率の妙が、この物語を成立させているのに、ドラマではことのほか無頓着だ。

被害者と加害者をつなぐ点の弱さを、三文小説の域どまりにしている。これは単なる作り物だ、と思わせてしまう。事実は、小説よりもはるかに奇なり、なのに。

昼餉は、バナナ、リンゴジャムを塗った全粒粉パン、シリアル、ミルク。

生きていれば、そんなことは起こりえないという瞬間が訪れる。それに気づかないヒトがいるのは、起きたことがあまりに荒唐無稽で結びつける力が弱いからだ。

もっと適当な言葉があるのだろうけれど、とりあえず、業のほかに思い当たるものがない。起こりえないことが起きるのは、多くの場合、六次の隔たりに依っている。すべての物事は6ステップで繋がっている。有りえない、起こりえないと思ってしまうのは、そのせいだ。

業というのは、6人の知り合いで全世界が繋がっているという、ある種の理不尽さを一言で表す言葉とも言える。

もっとも、六次の隔たりはまだ仮設の域を出ていない。人類は7人の女から始まっている、という遺伝子研究もある。ネットワーク時代に業は無かろうと思う。それくらい、起こりえないことが今この瞬間にもありきたりに起きている。

夕餉は、冷奴、ピーマン・パプリカ・玉葱・ズッキーニ・ナス・ベーコンの中華炒め、ご飯、冷たいほうじ茶。

妻とビデオ会話。