漸近ということ

 

雨。23度。

7時に起きる。

朝餉は、サニーレタス・キャベツ・コーン・カニカマのサラダ、味噌汁(玉葱・人参・小松菜・エノキ・シメジ・油揚げ・豆腐)、卵サンドイッチ、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ・バナナ。食後にコーヒー、クッキー。

Audirvanaは、予告どおりAudirvana Studioのダウンロードを開始した。Microsoftがバックで協力しているらしいことが、ちょっとした手続き画面からうかがえる。僕は、毒蛇に遭遇したカエルように、その会社名を見てパッと飛び退ける(あくまで気分的に、という意味だが)。

ダウンロードしたAudirvana Studioはちまちましたデザインで見にくい。インターフェースの意匠は高いバランスを保っているけれど、ボタンやメニューの配置がなぜか散漫に見える。常軌を逸したな、と言いたくなるくらい文字が小さい。デザインについて、なにか大きな勘違いをしているのでは、と心配になる(あまり心配はしないけれど)。

そして、困ったことにうまく動かない。

Tidalと接続しても、僕の作ったプレイリストが表示されない。ついでに、Tidal自身が作った貧相なプレイリストも再生できない(何よりだが)。こういう場合は、ほぼ100%の確率で僕に問題がある。

一方で、LINNが放送しているようなインターネットラジオは聴くことができた。排他的な設定が他のアプリの動きを邪魔しているフシもある。僕の環境に固有のバグかもしれない。そうだとしても、興味は薄れてしまった(毒蛇のせいではない)。

根気が失せたのは、キャピキャピの娘はションベン臭いだけであとは何もない、という疲れ切った中年が抱く雑巾のような感覚に近い。

Audirvanaroonも、ローカルのサーバに蓄えられたリッピング・ファイルがない環境では存在意義の半分は感じられない。アップサンプリングに対応するスピーカーがほしいわけでもない。高品質のストリーミングも出口あったればこそだ。

どちらのアプリも、使っていると音楽からどんどん遠ざかっていく気がする(どの口が言っていると思うけれど)。

で、SpotifyTidalを残してAudirvanaroonもサブスクリプションは今月限りとした。Tidalをどうするかは、今年後半にサービスインが予定されているSpotifyのハイレゾサービスのクォリティを見きわめたい。

昼餉は、玉葱とウインナーのアーリオオーリオ・ペペロンチーノ。食後にクッキー。

これがアナログなら話はもっと簡単だ。イコライザをとおしたら、そのぶんだけ音は濁る。ソースはソースなりに、でいいのだと思う。アップサンプリングしたデジタルの音も、だいぶ乱暴な比較だけれど、似たようなものではなかろうか。ソースが16bit 44.1kHzなら、もうそれでけっこうです、という感じではある。1000万円のハードウェアでも、1000円のハードウェアでもかまわない(どちらのハードウェアも聴いたことはないけれど)。

翻訳された物語を読んでいると、同じことを考える。翻訳によって、物語は顔つきが変わる。けれど、物語という器が揺れ動くことはない。顔つきと器が揃ってこその小説だと思うが、面白いのは、物語の普遍性は実は言葉の住処に根ざしていないところがあるということだ。いくら言葉を紡いでも、それを詳らかにはできない。矛盾を孕んでいる。

アナログだろうとデジタルだろうと、音楽の普遍性も、そこの構造には根ざしていないところがある。

根ざしていないとしたら、どこまで近接できるかという漸近でしかない。同化できないだけのことだ。少なくとも僕は、近接にあたっては、身近に置くことを一義にして音楽と付き合いたい。結局、いつもそう思ってきたし、幸いなことにそれは今も変わらない。

夕餉は、切干大根煮、竹輪のマヨネーズ・アオサ焼き、味噌汁(玉葱・人参・エノキ・シメジ・油揚げ・豆腐)、チャーハン。

近接とは、音のクォリティではなく、音楽との物理的な距離にあるという、しごく当たり前のことではある。

 

 

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