気づいている

 

晴れ。14度。

7時に起きる。

朝餉は、サツマイモの甘煮、ピーマンの鶏ひき肉詰め焼き、味噌汁(カボチャ・大根・人参・ほうれん草・豆腐)、サツマイモご飯。食後にコーヒー。

レンタルしていたモバイルWi-Fiを返却。札幌の実家で45日ほど使った。一人暮らしの若者は、インターネット環境をこれだけで賄うらしい。

潔いというか、いいなと思う。据え置きとか固定とか、融通が効かないモノへのそこはかとない嫌悪が宿るようになったのは、いつ頃からだろう。

若者がクルマを持たなくなったのも、そういうことだと思う。買って、駐車場を借りて、保険に入って、車検証を取って、定期点検して、ガソリンを入れて……。いちいちに金を払う。契約書に書き込んで、ハンコを押す。その場限りの書類が溜まっていく。

そこまでして、年に1500kmも走らない。

クルマは、鈍重な物の代名詞になった。どこへでも行けるという幻想から、クルマは解き放たれた。

買うという行為には、扉を開く力がない。

僕らが、資本主義というイデオロギーにぶら下がり続けているのは、次を開く扉がどんなものか、わからないからだ。

昼餉は、妻の作った卵サンドイッチ。

250ccの生産中止になったネイキッドのバイクが好ましいのは、服の次くらいに羽織る感じがするからか。

だが、重さ100kgを超える羽織りなど必要なのか。

厚手のメルトン地のPコートが、この時期はよほどありがたくはないか。

だが、重さ1kgのメルトン地が肩にのしかかるのは、はたして羽織るというのか。

今風の心象は、この「迷う」という堂々巡りのことらしい。

その次のステップは、とりあえず、というやつだ。そのための行動原理が、シェアとか、お古というやつらしい。俗に、濁す、という。要するに、逃げるのだ。

とりあえず、間に合わせてみる。どんな感じなのか、自問する猶予をもらう。

僕らは、場をつなごうとしている。それっぽいイデオロギーが見つかるまで。

だが実は、僕らは気付きつつある。

「それっぽい」というのが見つけようとしているイデオロギーらしいことに。

夕餉は、キュウリ・竹輪・ワカメの酢の物、ほうれん草の白胡麻和え、ピーマンの肉挟み焼きの残り、焼き鮭、味噌汁(カボチャ・大根・人参・小松菜・油揚げ・豆腐)、ご飯。食後に焙じ茶、蒸しチョコパン。

今さら、決めつけてみたところで、何かが変わるわけではない。信奉できるものなど無いに越したことはない。

イデオロギーなど、役に立たない。そもそも、役に立つって、それはなんなのだろう。役に立たないことの方が、よほど役に立つと、僕らは気づいている。

だから、なんにせよ、それっぽいことをどこまでもそれっぽく。それなのか、と膝を打つことは来ないし、それの方がよほどいい。

だから、それっぽくがいいのだ、と。

 

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