存在としての脆弱性

 

曇り、のち雨。28度。

7時に起きる。

朝餉は、バナナミルクセーキ、レタス・キャベツ・トマトのサラダ、ハム・レタス・卵焼きのサンドイッチ、アールグレイ、麦茶。食後にコーヒー。

精神的な公害についての昨日の文章はわかりにくかった。

AIが僕らに及ぼす影響は、気づかないところで深く進んでいる気がしている。チェスや将棋、囲碁のように高度に知的なゲームを乗っ取り(どうやってもヒトは勝てないわけだから)、ヒトに無力感を植え付けるという影響があるのではないか。無力感という言葉が適切かどうかわからない。閉塞感とか色彩感の無さとか、もっといえばゲーム性の喪失かもしれない。手を読む愉しさ、読み筋を違える愉しさ、新しい戦法を組み立てる愉しさ、相手を観察する愉しさといったある意味ではとても人間臭い諸相を、AIは膨大な選択肢の問題に変換してしまった。ゲームというより高速計算という選択をしているだけなのだ。

再提示されたゲームは、ちょっと大袈裟に言えば、知的な部分を取り去ったほうが目的は達成できることを知らしめた。もうすでに起きていることだが、知的と思われている事象が実は置換可能になって、AIに置き換えられていく。だが、それは結果の部分であって、その前段でヒトは病みはじめる。僕らは思いもしなかった角度から心理的な圧迫を受け続けている。

その行き着く先がどのような病弊なのか。それが新たな公害と呼ばれる日が来るのではないか。

昼餉は、妻の作った焼きそば。

僕らが発明した物事は、必ず負の部分を隠し持って生まれてきた。多大な恩恵を受けるものほど、その部分は取り返しがつかないかもしれない。

だからAIはダメだと決め付けているわけではない。ただ、電子機器は存在としてとても脆弱なのだ。足下をすくわれるのは、日常化したあとにやってくる。二重三重のバックアップ態勢があると専門家が言うとき、僕はいつも思う。それも電子機器でしょう、と。ネットワークされた電子機器の脆弱性はどんな生態系より弱い。処理能力の高さに脆弱性は比例する。この場合の脆弱性とは、それを失ったときの損害と回復までにかかる損害まで含めている。Googleのバックアップ態勢は地球全体に分散されている。閉じた体勢で独自の電力に拠っているという。

なるほど。でも、それは電子機器なのだ。

夕餉は、キュウリと干し海老・竹輪の酢の物、冷奴、餃子、味噌汁、玄米ご飯、麦茶。食後にロールケーキ。

怖いのは、僕の指摘に執拗に食い下がって、万全だと主張する知能のことだ。その知能は、すでに置き換え可能だし、最終的には万全でないという答えを選択するかもしれない。

僕がいつも思うのは、そういう転覆的存在としての電子機器の脆弱性は払拭できないということだ。