面倒臭さが担保するもの

秋晴れ。
七時過ぎに起きる。
朝餉は、キャベツとハム、茹で卵のサラダ、昆布と大豆の醤油煮、味噌汁(大根、人参、玉葱、豆腐、大根の葉)、ブルーベリーとクリームのパン、バナナときな粉、蜂蜜のミルクセーキアールグレイ。食後にバームクーヘン。
入り側書斎でキーを叩く。
昼餉は、目指しの焼いたのと玄米ご飯。
雲ひとつない空、いつもより手前に見える伊吹山、輝く琵琶湖。洗車場でクルマを拭き、タイヤの空気を充填していると汗ばむ。
十キロをジョグ。
羽虫が日溜まりに躍っている。誰も収獲しない柿の実が少しずつ朽ちていく。義母の畑の奥の柿もいつのまにか黒い斑点が散っている。
遅くに帰宅した女房は、介護士の振る舞いについてひとしきり不平を並べた。それでも、見えている出口のおかげで顔は明るい。
零時近くになってしまった夕餉は、味噌汁の残り、白チャンコの出汁の常夜鍋、玄米ご飯。食後にバームクーヘンと珈琲。
選挙で躍進したドイツの極右政党の議員はナチを擁護するような発言を繰り返している。米国の大統領もそうだが、民主主義の正統な手続きを経て選ばれた人々が、その制度の欠陥を雄弁に物語っているような気がしてならない。選ばれたのだから、という免罪符が民主主義にはついて回る。有権者が選ぶという行為と、それを体現するはずの選挙制度がつねに等価かどうか。問われているのはその一点だと思う。
我が国の衆議院議員選挙も、相応しい制度で選ばれているのか、それを問う投票というものは行われていない。最高裁判所が正しい判断をしているのか。それを問う投票も必要かもしれない。そして、その投票の正当性を問う投票も行う必要がある。カタルーニャ州はほんとうに圧倒的多数が選挙でスペインからの独立を支持したのだろうか。これほど情報が溢れていても実情はなかなか伝わってこない。結果だけがセンセーショナルに報じられるのは、なぜだろう。
なんにしても、民主主義は果てることのない手続きの制度なのだ。面倒くさいし、途方に暮れる。だが、そういうプリンシプルであることを基礎教育は子どもの頃からみっちり叩き込んでいるだろうか。僕にはそう見えないことが多々ある。
この国に固有の現象ではないと思う。民主主義は健全かもしれない。しかし、それを機能させる制度は健全だろうか。そういう検証の手続きはまっとうに機能しているだろうか。問いかけや疑問は、制度や手続きに十全に反映されているだろうか。
投票する政党がない。ある有識者が、投票の忌避を宣言した。権利を放棄するのは、民主主義における自殺だ。では、彼はどのように宣言するべきだったのだろう。
民主主義は常に検証されていなければいけない、ある意味では鮮度を求められる行為なのだ。正しく機能しているのか。それは現実の制度でしかあらわしようがない。常に制度を監視し続けることの大切さを僕らは忘れがちだ。民主主義は、決して楽ではないのだ。