余力とか、見えないこととか

 

 

 

 

 

曇り、のち雨。14度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・チーズ・バジル)、味噌汁(ネギ・人参・油揚げ・豆腐・玉葱)、ハムと玉葱のピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
ダイニングの床に這いつくばって妻がごそごそやっている。先だって無くしたイヤホンの代わりにぼくがプレゼントしたBluetoothのイヤホンの片側が耳から落ちた。それが見つからないという。ありそうで見つからないものは、すべて亡き義母のイタズラ——妻があみ出した責任転嫁の儀式だ。
自分の視野狭窄と無意識の行為を棚にあげて、義母はさぞかし呆れていることだろう。妻はいつからか真面目に思うようになった。すぐ横にまとめた紙袋があるのに、イヤホンがそこに落ちたという想像はしない。
そこじゃない?と指摘すると、妻はあり得ないという顔で仕方なく手をやる。
あら、あった……。
義母が亡くなってからそんな顛末が暮らしに根付いた。妻は、義母と暮らし続けている。
昼餉は抜き。
札幌の親戚へ、メロンの返礼と法事に出席できない非礼を詫びた手紙を書く。あちらの春はもう少し先に行った密やかな所に佇んでいる。
理想の聴こえ方というのがある。音楽は、どこか目に見えないところからさざなみのように流れていてほしい。大きなスピーカーがあって、それが威勢よく鳴っているのは下品だと思うようになった。左右のスピーカーの定位とかもなんだか煩わしい。無造作に置かれたスピーカーはどこを向いていてもいいし、なんだったら片側が死んでいてもいい。
曖昧であやふやで捉えどころがない——音楽との距離はそれくらい。アクセルを踏まなくてもトルクだけで走る5リッターのクルマのように、気づけば聴こえている。そういうビックブロックの余力だけがいい。聴こえないことは、背景にある大きな存在をなにも裏付けはしない。それでいい。
夕餉は、マカロニサラダ、鶏ひき肉と大根のとろとろ煮、塩サバ焼き、味噌汁(ネギ・小松菜・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、赤ワイン。