ご勝手に、どうぞ

 

 

 

 

 

晴れ。12度。北西の強い風。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大根・大豆煮・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・大根の葉・油揚げ・豆腐・玉葱・人参・大根)、ピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。
宅配便が訪う。段ボール2個を本の買取店へ。20キロくらいありそうな箱を重ねて、ひょいと持ち上げて行ってしまった若者の背に、気をつけてねと声をかける。鍛錬のたまものというべきか。
普段着の数を4分の1以下に減らそうとしている。ユニクロなんかの安物をすべて処分して、残りは買取店へ。それでもまだ多い。素朴で簡素でわかりやすい——身の回りをそんな状態にまでもっていくのに費やす日々のことをおもう。
手元にあるレイバンのウェイファーラーは往時のボシュロム社製でアメリカ時代のヴィンテージだ。リムやテンプルはセルロイドなので、もちろん劣化している。ヴィンテージを買ったわけではない。使い続けるうち歳月が流れていったのだ。持っている人にしか価値はわからない。モノの物語はそんなものだ。処分するとなると二束三文である。使い続けるうちはいいけれど、その先には哀しい結末しかない。懊悩するのは、物語との決別がままならないからであって、もったいないというのとは違う。工業社会の徒花と言ってしまえば、なるほどそうなのかもしれない。
昼餉は、妻とモスバーガーへ。ハンバーグとフレンチフライ、コーヒー。
その足で散髪へ。いつものツーブロック。ずいぶん伸びていたのでスースーする。
金継ぎした陶磁器を見ていると、どうひっくり返っても敵わない孤絶感に驚くことがある。ヒトによって生み落とされ、ヒトによって甦らされた。たまたまそこに在るという、諧謔にも似た放心が器から見え隠れする。アンタが何を読み取ろうと、それはアタシにはどうでもいいこと。どうぞ、ご勝手に。そう言われたような錯覚が、器からゆらゆらと立ち昇っている。
徒花もそこまでいけば大成である。これも「ご勝手に」の一つだろう。
夕餉は、納豆、マカロニサラダ、フレンチフライ、焼き鮭、味噌汁(玉葱・人参・小松菜・大根・油揚げ・豆腐・大根の葉)、玄米ご飯。