stoneが考えていること、いやまったく考えてもいないこと

 

 

 

 


雪、のち晴れ。5度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・大根・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(サツマイモ・大根・人参・玉葱・油揚げ・豆腐・ネギ)、バターを塗ったトースト、アールグレイ。食後にコーヒー、チョコレート。
雪が雨に変わる。解けて、やがて凍っていく。
stoneの出来損ないのようなか細い挿入ポインタがなにやら素敵に見えている。ちょっと気を抜くと、もうどこでブリンクしているのか見つけられない。文字列のどこかで迷子になった挿入ポインタを探していると、そんなわかりにくさが、もうこの際だから愛おしい。
わかりやすいところはとことんわかりやすい。なのに、こんなところがわかりにくくていいんかい、という混迷がここにはある。
絶妙でいて、微妙だ。それを均衡といっていいのか。ぼくはずっと懊悩している。それはもしかすると、極上の懊悩といっていいかもしれない。
stoneの考えは明らかだ。文章を眺めていれば、そのブリンクが気になってくる。そういう人は、いったん気になったらおしまいだ。だから、1ドットくらいの細さまで削ってギリギリまで見えなくして、文字だけしか画面にないような意匠を施している。机に広げた白い紙に挿入ポインタなど存在しない。当たり前のことだ。だから、Macの画面にも文字しか表示しない。わずかに見える挿入ポインタも、とことん迷惑にならないようにしたのだ。いちばんの迷惑を優先して、そのためなら二番目以下の迷惑に目をつむった。そういうわけだ。
その優先順位を変えられるような選択肢をメニューやらに設けなかった。選択肢なんて要らないのだ。それがいちばんスッキリして戸惑いがない。そういうことだと彼らは決めた。
ぼくは、これこそが開発というものだと思う。増やすのではなく、減らす。なんなら不便をかこつ。その不便に満足を託す。なにがどこにあるのか、選択肢で迷子になるくらいならぜんぶを捨てて、白い紙の世界にたゆとう。
昼餉は、中華スープ、野菜とジャコの焼きそば。
妻と買い物がてらの散歩へ。クルマも人も少ない街を歩く。人はともかく、車道が空いているのはすがすがしい。ずっとこれくらいならいいのに、と思いながら歩く。
stoneに彼らが託したことは、ぼくが書いたこととは違うかもしれない。たぶん、まったく違う。ほんとは加えたい機能が山ほどあって、でも、人も金も時間も足りない。だから、ひょっとしたらこれからつけ加えるかもしれない。
だが、それでもぼくはいっこうにかまわない。結果として、ぼくが受け取ったことが僕にはすべてだからだ。
大事なのは、明確ではないことでも明確に受け取れるのだ。ソフトウェアとはそういうものだ。大事なのは、そこだけだ。
夕餉は、大根の皮と人参のきんぴら、里芋の煮っ転がし、味噌汁(ナメコ・玉葱・大根・サツマイモ・人参・油揚げ・豆腐)、カレーの残り、赤ワイン、ウィスキー・オンザロック。