そのゴーグルは、やっぱりゴーグル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ、のち曇り。夜に雨。25度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、レタス・キャベツ・玉葱・カニカマ・バジルのサラダ、味噌汁(とき卵・小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、ハム・卵焼き・レタスのトーストサンドイッチ、アールグレイ。

古書を求める。3冊とも最果タヒ。前2冊はリトルモア刊『夜空はいつでも最高密度の青空だ』、『愛の縫い目はここ』、『星か獣になる季節』(ちくま文庫)。

この女の子が、誰も紡がない言葉を生み出しているというなら、この国はちょっとだけ開き盲だ。

多感な女の子の詩はこういうものなのだ、と気づいてもよさそうなのに。誰も言わないものだから、この女の子は不安に駆られている。

 

わたしは、こんなくらいなのに。

大丈夫なんでしょうかね、みなさんは。

 

と思っている。この女の子を「こんな女の子」の枠に押し込めても、この女の子はその枠の中でちょっとだけ突き抜けていることを装う。女の子がみんなそうやっているのは、都会の女の子に限ったことではないというのに。

この女の子は、持て余しているのだ。まわりとの距離とか、都市と自然の関係を取り巻く広大無辺とか、彼氏と彼女のことを嘆いて見せることが板についてきた旬の感じを、たまにさらけ出してみるジェスチャーも。

昼餉は、クッキー、柿ピー、コーヒー。

WWDCでAppleが発表した次期OS群の詳細をメディアが伝えている。iOSがiPhone8をサポートしなくなったので、そろそろ買い替えになった。macOSの愛称はSonoma。それがカリフォルニアのどこかであることはわかるけれど……。

ゴーグルをつけて仮想コンピューティングを提供するVision Proをティム・クックは「One more thing」と言ってイベントの最後に披露した。

50万円近いギアは、考えうるARやVRについてしっかり盛り込んだうえに、それらへのアプローチがAppleらしい独特の表現になっている。複雑になりがちなオペレーションとか装着時の違和感を解決する手法に、Appleがかけた時間の長さが伝わってくる。

コンピューティング全般への提案として昇華していることは高く評価していいと思う。高価だし、いよいよ高まる目への負担を解消できるのか、課題は多いだろう。

それでも、コンピューティングの包括的な提案であることは間違いない。視線と指先、それに音声による連携。オペレーションはデバイスを離れて、いよいよ身体表現の領域へ入った。洗練された方向性をAppleは模索し続けている。

対話型AIとの補完関係がどうなるのか。Vision Proが陳腐化する可能性も否定できない。ゴーグルが不自由の象徴に見えなくもない。身体化したコンピューティングは、映画ですでに表現されている。それらはAIの存在への無回答にも見える。Vision Proは、その最たる例になるかもしれない。

ダグラス・エンゲルバートが発明したマウスは、圧倒的な仮想性でもって二次元の画面を空間的認識へと導いた。目と指によるポインティングの連動性がいかに優れていたかは、今でもコンピューティングを主導しているデバイスであることが証明している。

マウスとビットマップ・ディスプレイがなければ、この世界の描かれようはどうなっていただろう。

夕餉は、納豆、切り干し大根、花カツオをかけた焼きナス、卵焼きを添えた焼き鮭、味噌汁(小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、赤ワイン。

マウスが登場したとき、僕らが真っ先に感じたのはキーボードからの解放だった。言語化しなければ先へ進めないまどろっこしさ。そのモヤモヤさえ、当時の僕らは言語化しなければならなかった。

マウスが表現していたのは、言葉より先に衝動を表現する手段を手にした、まさに軽やかさだった。そういう転換点が、マウスという小さなデバイスとカーソルという点を支えるビットマップ化されたディスプレイにはあった。

対話型AIなどという表現が陳腐に思える――ChatGPTの登場に感じた、えもいわれぬ軽快感は、マウスの軽やかさに一脈通じる。

Vision Proはどうだろう。

軽やかなデバイスの顔をVision Proは持っているのだろうか。