もののあはれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。7度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ、キャベツ・竹輪・カニカマ・青さのサラダ、味噌汁(玉葱・ネギ・人参・キャベツ・油揚げ・豆腐)、ピザトースト、アールグレイ。食後に蜂蜜をたらしたジンジャー・ターメリックティー。

妻と散歩へ。ショッピングをしたりして、4時間ほど歩く。championのスウェットパーカーを妻に求める。

日差しは強いのに、風が強い。早歩きすると汗ばむのに、コートの前を開けるとすぐ冷たくなる。

 

小林秀雄著『本居宣長』より抜粋――

 

「古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、種として、万の言の葉とぞ、なれりける、とある。このこころといふがすなわち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思う事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある。此心に思う事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大網をいひ、ここは其いはれをのべたる也(後略)」(「石上私淑言」巻一)

 

昼餉は、おにぎり2個、お餅、ミルクティー。

 

引用の続き――

 

 言うまでもなく、これは論の起点であって、これだけでは何も言わぬに等しいのだが、引用によって、私が、読者の注意をうながしたかったのは、他でもない、宣長が取りあげた「もののあはれ」と言う言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意を払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼は、この平凡陳腐な歌語を取り上げて吟味し、その含蓄する意味合いの豊かさに驚いた。その記述が、彼の「もののあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない。ひたすら自分の驚きを、何物かに向かって開放しようと願ったとは言えても、これを、文学の本質論の型のうちに閉じ込めようとしたとは言い難い。

 

夕餉は、妻の作った醤油ラーメン、焙じ茶、シュークリーム、落花生。

 

引用の続き――

 

 宣長は、「あはれ」とは何かと問い、その用例を吟味した末、再び同じ言葉に、否応なく連れ戻された。言わば、その内的経験の緊張度が、彼の「もののあはれ」論を貫くのである。この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合いをことごとく飲み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどのつまり、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。私は、勝手な思いつきを述べているのではない。