盲人の提灯

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。7度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、キャベツ・大根・大豆・カニカマ・バジルのサラダ、味噌汁(玉葱・人参・大根・キャベツ・油揚げ・豆腐)、ハムと玉葱のピザトースト、アールグレイ。食後にチャイティー。

新名神で丸一日の渋滞、滋賀のJRでは立ち往生した電車で夕方から真夜中近くの立ちっぱなし。雪の被害は毎年のこととなりつつある。

レヴィ=ストロース著『月の裏側』より抜粋――

 

けれども、一切の二項対立を超えて、美と醜の対立がもはや意味をもたなくなるような状態に達することなのである。それは仏教で「如是」と呼ばれている。どんな区別よりも先にあって、是の如くにあるという事実による以外、定義できないものなのである。

 この陶器の哲学を、当時陶芸や陶器の装飾を行っていた仙厓を語る上で引き合いに出しても、不当ではないだろう。なぜなら、彼は同様に画家としても、醜さを消し去ることで美に到達しようとは考えなかったからだ。「洗練と粗野を区分けしてはならない」と、六世紀に中国の禅宗の長老は言っている。「選択する必要はないのだから」。どんな制約にも規則にもこだわらず、無造作と優雅が混じり合う、この心のままの書画のうちに、戯画に似た何かを感じとるのは誤りであろう。戯画は現実を意図的に誇張し変形するが、仙厓の作品のような芸術は、現実と一つの行為との予期せぬ出逢いの結果なのだから。作品は、モデルを模倣しない。作品は、二つのはかない現象、すなわち一つの形、一つの表現あるいは一つの態度、そして筆に与えられた勢いとの融合であると言ったほうがよいかもしれない。禅画は独特のやり方で、仏教思想の精髄を表現している。それは存在と物に一切の永続性を認めず、存在と非存在、生と死、空虚と充実、自己と他者、美と醜の区別が消える境地に悟りによって到達しようとするものだ。そして同じ原理の名のもとに、この状態に到達するにはあらゆる方法が有効であり、禅は、世を超越する瞑想、地口、愚弄のあいだに、まったく価値の上下を認めていない。

 

昼餉は、生クリームパン、ジンジャー・ターメリックティー。

古書が届く。出光美術館編・著『仙厓 BEST100 ARTBOX』(講談社)。

 

抜粋の続き――

 

 それゆえ、宗教画家にとって滑稽な物事は、少しも意外な物ではない。禅文学には、禅画が喚起するのと同じような、滑稽な小話がたくさんある。ある盲人が提灯で夜の闇を照らしながら歩いているのを、人がいぶかしく思う。「人が私にぶつからないためだ」と、盲人は説明する。にもかかわらず、彼は人にぶつかる。提灯が消えていたと教えられて、盲人は灯し直す。またぶつかって、盲人は相手をなじる。「でも、私は目が見えないのだよ」と、相手は答える。

 この小話が喚起する笑いは、二つの意味場が短絡することから生じている。盲目であることが、言葉としての意味から、機能としての意味に突然変わるのだ。そこから知的にゆさぶりが生まれ、聴く者を悟りの道へ向かわせる。経験的なもののありようは我々を矛盾の内に閉じ込め、用心を重ねればその矛盾から逃れられると信じても無駄であることを理解させるのである。

 

夕餉は、佃煮、餃子、味噌汁(大根・玉葱・人参・ネギ・キャベツ・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯(妻はツナカレーの残り)、赤ワイン。食後に落花生、クッキー。