涙、涙のひまわり

 

 

 

 

 

 

うす日。9度。

8時に起きる。

朝餉は、味噌汁(ナメコ・ジャガイモ・大根・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、ハム・ピーマン・玉葱のピザトースト、アールグレイ。

お節を作ろうにも、食材がばかみたいに値上がりしており、まともな感覚では買い物ができない。ふつうに暮らせと言われていることに気づく(年の瀬も押し迫って支度もクソもあるかという現実は別にしてだが……)。だれが言っているのかはともかくとして、その声は正しくもあり今にはじまったことでもない。

そういえば、ある日のこと。体幹だぞ体幹、という声がしたような気がしてクランプなんかをヒィヒィ言いながらやっていたら頻尿がおさまりつつある。そういうことだったのか、とトイレで合点がいく。

だれが言っているのかはともかくとして、そういう声はその時にはよくわからなくて、あとになってそうかと思うのだ。

 

「それを造れば、人々はやってくる……」

 

トウキビ畑でそんな声を聞いた男の顛末は映画を見ればわかる。

僕に聞こえるなら、誰にだって聞こえている。誰だ、お前は?とかその声に問いかけながら。

どこかで相手を信じているのは、そういうバックボーンがちゃんとあることを知っているからではないかと思う。どうせ、同じ人間じゃんというのは、モダンジャズの旗手の一人にして極度のジャンキーだったチャーリー・パーカーが端的に語っている。

 

「そんな怒るなよ、あんたも俺も、おふくろのおまんこから生まれてきたんじゃないか」

 

ドラッグ欲しさに、借りた金を踏み倒すようなヤツがそんなことを言う(相手を信じているいないの問題ではないと彼は言っているのかもしれないが)。

なんにせよ、チャーリー・パーカーはバックボーンがあることをわかっていた。でなければ、あんな超高速にして超耽美なフレーズを奏でたりはしない。それがどれほど革新的であろうと、ちゃんと伝わるのだということを一瞬たりとも疑ったりはしなかった。

札幌の姉に電話。雪はそれほど積もっていないけれど、一人で迎える年末。涙声で暮らしを語る。寂しいときは、寂しさを無理に遠ざけることはないよと言う。どんな気持ちも、そのときの偽ざるものなら対峙するほかないのだから。

言わずもがなのことを言って、僕はろくでもないと心のうちで舌打ちをする。

夕餉は、鳥肉団子・白菜・焼き豆腐・ネギの中華鍋、残り汁にラーメン、赤ワイン、ビール。食後にハーブティー、クッキー。

NHK BSで映画を。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ひまわり』。マルチェロ・マストロヤンニの演技の凄みは、こちらが歳をとるほど伝わってくる。ソフィア・ローレンは最後のシーン、列車を見つめる視線が一瞬だが宙を泳いで、こちらの涙を誘う。

というよりも、僕は最初の咲き乱れるひまわりのシーンから涙が止まらない。リュドミラ・サベーリエワの美しさは、ロシア娘のほんの短い期間にしか認められないものだが、彼女はそれをずっと保ちつづけた。

ロケ地はウクライナだ。あの原発はチェルノブイリだったのだと思う。そうであれば、事故は16年後に起きている。

ウィスキーをちびちびやりながら、お節を作る。伊達巻き、栗きんとん、筑前煮、妻の作った高野豆腐の煮物、買ってきた黒豆煮も妻が御重に詰めていく。昆布巻きと田作りはパスして、紅白なますと茶碗蒸しは明日にでも。