かなり間違っていること

 

 

 

 

 

 

 

曇り。27度。

7時に起きる。

朝餉は、ナス・トマト・カボチャの南蛮漬け、ベーコン・目玉焼き、味噌汁(玉葱・人参・オクラ・油揚げ・豆腐)、バタートースト、キウィ。食後にコーヒー。

 

ヒトの世は、スローダウンしている。人口はすべての国で減っているか減りつつある。平均寿命の伸びは止まっているか止まりつつある。経済は大きな成長を止めているか止めつつあるし、まだ伸びているように見える国でも、マクロの指標は確実に止まっているか止まりつつある。

やがて100億人が暮らすなんていう膨張の止まらない世は、今や誰も信じない。それは豊かさにつながっていない。

ヒトの世は、縮小しつつある。経済指標に代表される数字では、この世の幸福度合いは表現できない。そのことは誰もがわかっている。

新しい指標は数字ではない――ならば、代わりはどんなものか。それを求めている時代がずっと続いている。地方に移住して、農業を始めた家族のことをメディアがレポートしている。それもある種の指標だ。彼らはそれでも裏で数字と格闘している。そのことにメディアは触れないだけだ。

一方で、豊かな暮らしという言葉についてまともな議論が起きている兆しはほとんどない。この国では、豊かさを計る言葉がまだ生まれていない。なにが豊かなのか、ということを誰も知らない。それは、知らないというより、考えていないという方が実態に即している。誰もが知りたがっているのに、誰もが考えていない。もっと正確に言えば、知りたがってさえいない。だから考えない、という言う方が正しい。

 

すでにわかっていることは、こうかもしれない――

豊かになることで、僕らはさまざまなことができるようになった。選択肢が増えた。便利になって時間ができた。誰かが肩代わりしてくれる。余分な時間をほかのことに使える。それがまた、時間を足りなくさせる。誰かの時間を借りたり買ったり売ったりする。そのぶんだけまた仕事が増える。目まぐるしさは変わらずだ。

豊かさは、便利さと同義。そういう時代が続いてきた。

便利になることは、不便だったことよりなお始末に悪い。便利と不便は表裏一体で、だから、便利と不便は物事を考える際の尺度にはならない。誰もが、気づいている。少なくとも、それだけでは答えがいびつになる、と。

 

すべてのことが、結局のところ、数字に表され続けている。度合いという尺度に頼って暮らす。人口が減少するのはこの国に限ったことではないのに、効率とか成長性とかどこかでそんな価値をまだ求めている。上が求めろというから、仕方なしに求める。

そうやって、年寄りや金持ちのせいにする。

150年より昔を体験した人は誰もいない。知恵は寸断している。伝承は絶たれている。数字ではない何かによってヒトの世を表していたのに、誰もそのことを覚えていない。

昔、ヒトは今日を生き伸びることだけだった。すぐ死んでしまう。人生を長いとか短いという時間で捉えることはなかった。死ぬ時はすぐ死ぬからだ。死が身近にあったから、ヒトはつねになにかに怯え、なにかを恐れてきた。

豊かさ、などという言葉とか考え方など存在していなかった。世界とは、目の届く範囲のことでしかなく、それがすべてだったのだ。

世界などという言葉は、もともと存在していなかった。

 

僕らは、実は、考えることを得意とはしていない。

僕らは、ヒトの世のことを昔のヒトよりはるかにわかっていない。わかっているようで、なにもわかっていない。

きっと、出発点はそのあたりだと思う。

 

――僕らは、なにもわかっていない。昔のヒトより低い理解しかできない。溢れている情報は、理解の助けにならない。

というよりも、理解ということが助けにはならない。そのことに気づいていない。

 

夕餉は、キュウリ・梅肉の胡麻和え、厚揚げ・ナス・ピーマンの味噌炒め、鶏胸肉の唐揚げ、味噌汁(玉葱・人参・カボチャ・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯。