ウソだろう?

 

 

 

 

 

 

晴れ。8度。

8時に起きる。

朝餉は、大根・蒟蒻・厚揚げの煮物、卵焼きとウインナーソーセージ、味噌汁(蕪・大根・玉葱・人参・油揚げ・豆腐・水菜)、ご飯。コーヒー。

内燃機関のクルマは、20年も経たないうちに姿を消すかもしれない。まったく乗れなくなることはないだろうが、燃料費とか維持費とか車検代は目が飛び出るような値段になっていて、一部の好事家を相手にするようなマーケットがかろうじて残っている。そんなことも容易に想像できる。チャンスは今しかなさそうだ。そういう目で、僕はルノーのTwingoとか、VWのupを見つめている。オーバーステアの小気味良く動く5ナンバーの原始的な動力の塊を。

子供の頃、近所で最初にクルマを手に入れたのは父だった。若い父は、オートバイもカメラも最初に手に入れた。暮らしは決して楽でなかったのに、母はなんとか工面したのだ。彼女の才覚は大したものだったと思う(今もそうだけれど)。

そのクルマが家に来た時、僕は初めてエンジンというものがどのように動くのか、その原理をしばらくしてから知ることとなった。父以外の誰かから聞いたのだと思う。父が理屈や原理を僕に説明してくれたことは一度としてなかった。

シリンダーの中で帰化した燃料に火をつけ爆発させ、その勢いでピストンが上下に動く。その上下運動を回転運動に変換させて、クルマはタイヤを回している。大雑把にそのイメージを頭に叩き込んだ。そのうえで、僕ははっきり幻滅したのを覚えている。

正直、がっかりした。

大人のやることは、もうちょっとソフィストケートされている。僕はどこかでそう信じていた(ソフィストケートという言葉を知るのはもっとずっと後のことだが)。

それは、買いかぶりだったのだ。

 

燃焼って、要するに爆発か。

 

動力って、その程度の理屈でしかないのかと思った。

そして、怖くなった。

現実ははるかに原始的だった。そんなことでは早晩、地球はダメになると思った。暴力的なエネルギー取得をしていることがショックだったのだ。小さな子供でも、それくらいのことはわかった。自分の家のクルマがどれくらいガソリンを呑んで動いているのか。それが世界中の家で起きている。そのことを想像して、すっかり幻滅したのだと思う。

昼、レーズンロールパン、ミルク。

ヒトの作るものはあてにはならない――僕が経済活動全般に不信を抱くきっかけになったのは、内燃機関の原理に触れた時だったのだと思う。

それに比べたら、コンピュータはもう少し深淵に見えた。ナノメートルの世界で起きていることは原理と想像の乖離が尋常でなかったから。

それが僕を魅了したのかもしれない。

夕餉は、味噌汁の残り、ポークカレー、ウイスキーオンザロック、コーヒー、ナッツ。

この世は胡散臭い――僕が常に思ってきたことだ。今でさえ、エンジンは最大の動力だ。だから、僕はこの世を頭から信じる気が起きない。

原理は、爆発なのだから。

子どもたちに尋ねてみるといい。

子どもたちは一人残らず「嘘だろう? そんなボロっちい仕組みなんだ」と思ったはずだ。そのショックはとてつもなく大きい。

大袈裟に言えば、社会は子どもの心を裏切ってきたのだ。