友という存在

 

おおむね晴れ。19度。

7時に起きる。

朝餉は、味噌汁(大根・玉葱・人参・エノキ・三つ葉・ネギ・油揚げ・豆腐)、喫茶店のマスターからいただいた食パンでピザトースト、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ、紅茶。食後にコーヒー。

レオン・ウェルトがサン=テグジュペリの思い出を本に著した際の冒頭のほうの文章——

 

 

 そんなわけだから、僕以外の人たちには見当がつくかもしれない多くの不確かな事柄が、ここには残っている。無意味な出来事に重大な意味が与えられている。僕がその残虐行為について何も知らなかった時代の、ドイツに関する判断がある。

 巧みに調整して仕上げようとする配慮を一切欠いたこの記録ノートは、無味乾燥な調子で語る。だから、これはアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリについて、手なおししていない単なるメモにすぎない。したがって、「死の完璧さ」のなかで彼が不動の銅像になっていないことに驚かないで欲しい。決して癒されることのない苦痛があるのだが、その痕跡がどこにも見つからなくても驚かないでほしい。

 

 

なんと端的で、正直な言葉の並び。そして、どこまでも文学的であることか。この文章を前にすると言葉を失う。

昼餉は、ブルーベリージャムを塗ったトースト、ミルク。

ジョギング、8.06キロ。北北西の強い風。

米原の田植えは8割がた終わっている。

マニュアルのないMacBook Airのオペレーションを妻はなんとかやっている。たまに僕に尋ねるけれど、そういう時に思うことは、マニュアルがまったくない状態で、たとえばFinderという常駐のファイル操作環境を身につけることの困難さだったりする。

WindowsにおけるExplorerだと、すぐわかる対比対象があればいいけれど、システム環境でトラックパッドのドラッグ操作をあれこれカスタマイズしたい——となると途端にハードルが高くなる。検索すればスポットライトでわかるとか、ヒントを教えるのはやはりマニュアルの存在なのだ。

たかがオペレーションなのに、OSの未熟さに起因するハードルの高さ。このあたりの20世紀感は如何ともしがたい。

夕餉は、冷奴、ポテトサラダ、大根・人参の煮物、ささみ肉のレモン・バジルソテー、味噌汁(大根・玉葱・人参・エノキ・三つ葉・ネギ・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯。食後にクッキー。

 

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