晴れ。14度。
7時に起きる。
朝餉は、コールスロー、豚バラキャベツのとろみ炒め、味噌汁(大根・人参・小松菜・揚げ・豆腐・大根の葉)、トースト。食後にコーヒー。
並んでいる、ということに惹かれる。
壁面に並ぶものなら、たいがい見入ってしまう。それは、棚でもいいし、道ばたでもいい。パターンが無さそうで、無秩序っぽいと、なおいい。
ある種の目的、ある種の嗜好、ある種の警告、ある種の告白——。
あくまで、とりあえず並んでいる。それがいい。
バーの酒たち、キッチンの調味料たち、無造作に放り込まれたレコードたち、洗うそばから畳まれたシャツたち。
蒐集されたものより、必要や要請によって集ったもの。それらの放つ、同族意識の希薄な集団のスクラム感。希薄なくせに、それぞれが織りなす個性によって、氏素性がつづれ織となる。
なんなら、「そこに愛はあるんか」と女将さんに突っ込まれそうな気配さえ否定できない。
こういうレコードジャケットを目にすると、なんでも良いから聴いとけ、と大地真央さんが言いそうな。だからというわけではないものの……。
並んでいる、ということの呪術よ。
昼餉は、カップ麺。
並んでいると、落ち着くのか。
たぶん、逆だろう。並んでいるものは、どこか落ち着かなくさせる。見ざるを得ない。そのことが、ソワソワさせる。ワクワクとまではいかない、寸止めされる圧迫感さえあって、ソワソワは減りも増えもせず、並び続けてこちらの出方を様子見している。
そう、見られているのだ。
並んでいるくせして、こちらを見ている。それさえ、すぐには気づかない。気づかせない、という深謀遠慮さえチラチラしている。
並んでいるだけのくせして、手強いのだ。一筋縄ではいかない無造作。
なんなら、「無脈絡の曼荼羅」と呼んでもいい、普遍性さえ掬い取れそうだ。
気づけば、そんな前向きさを芽生えさせる。いかんいかん、と戒めても手遅れな迷宮。
それが、並んでいる、というヤツ。
妻の作った夕餉は、コールスローとゴボウのサラダ、クリームシチュー、ご飯。食後に焙じ茶、カステラ。