電話には出ない、という権利

 

晴れのち雨。34度。風。

7時に起きる。

朝餉は、キュウリと竹輪、ワカメ、カニカマの酢の物、茄子とズッキーニ、エリンギのソテー、味噌汁(人参、エノキ、玉葱、ジャガイモ、豆腐)、シャケと卵焼き、玄米ご飯、麦茶。食後にコーヒー。

彦根の空は晴れているが、こちらは雨が降ったり。そのあいだだけ、ベタつく風が流れ込む。

アイスランドの作曲家オーラヴル・アルナルズ(Ólafur Arnalds)の音楽はポスト・クラシカルと呼ばれるが、弦楽器やピアノ、シンセサイザーを使った内省的で鎮静的な音を紡ぎ出している。この“ポスト”という言葉を冠して、音楽をジャンルという枠に嵌め込む欲求がさっぱりわからない。だが、世界中どこに住んでいても、この音楽はヒトを心地良くすることだろうと思う。

“ポスト”を冠して、その音楽が本来持っている良い意味での無関心さを台無しにしないでと願わずにいられない。

昼餉は、落花生をかじる。

無関心に良いも悪いもあるか、と思いがちだが、今は隠密裏に関与されている時代で、こちらが拒絶してもあちらは放っておいてくれない。抵抗としての無関心は、最後の砦なのかもしれない。

大きな虚構が僕らを覆い尽くしている。たとえば、情報は洪水のようにタダでやってくる、とか。

タダなんかではない。インターネットほど高価なシステムはない。毎月の出費をご覧よ。Wi-Fiだの、ルーターだの、iPhoneだの、サブスクリプションだの。それにメールアドレスだって。

そのうえ、アクセスすればリスクだらけで、生存権さえ脅かされかねない。

女房は、新盆の同級生の墓参りと彼が務めていた寿司屋で御斎。夜遅くに戻る。

夕餉は、野菜炒めのポン酢かけ、玄米ご飯。

金を払って、洪水のような情報へ泳ぎだしたところで、それはどこまでいってもキリがない。

虚構なのだから。

金をちょっとでも使わせようという企図に溢れた世界だからこそ、音楽がもたらしてくれる無関心さは他に換えようがない。

つながりとか絆とか、音楽にべったり張り付いたそういう陳腐化した価値に音楽を閉じ込めようとしている若きミュージシャンたちに、僕はそれこそ無関心でいたい。

さすがに超という文字は頭から取れたらしいが、それでも十分に大きな台風が近づいている。

 

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