降ってはこない

 

雨のち晴れ。26度。

7時に起きる。

朝餉は、抜き。

 

昼餉は、ステーキハウスでハンバーガー、季節のサラダ、ケーキとアイスクリーム。

市役所や銀行であれこれ手続き。懸案が少しずつ片付いていくと、女房は元気なった。

図書館へ寄る。ショーン・タン著、岸本佐知子訳『鳥の王さま』(河出書房新社)。そばの図書館のタンの蔵書は充実しているが、一冊を除いてすべて貸し出し中だ。個展のおかげかな?

夕餉は、ゆで卵のサンドイッチ。

AppleはiOSのパブリックベータ ・プログラムを更新してβ3をリリースした。

ショーン・タンの言葉――

(前略)

創造的なことなんて、白い紙を前にして何ひとつ浮かんでこない。インスピレーションのイの字も、五感のゴの字もない。世にいう「描けない病」というやつだ。そんなとき、僕にできることはただ一つ――とにかく描いてみる。

 画家のパウル・クレーは、この単純な行為のことを「線を散歩させる」と呼んでいる。日々僕がやっているのは、まさにそれだ。スケッチブックの背景の中を、エンピツの気の向くままに歩かせてみる。これといった当てもなく、ただ途中で何か面白いものが見つかることを期待しつつ、まっすぐの線や折れ曲がった線、ぐにゃぐにゃの線や輪っかが、ふとした拍子に、山や顔や生き物や機械や、ときに抽象的な心象風景に姿を変える。意味なんて二の次、ただ純粋に“手を動かす”だけ(小さい子供は誰に教わらなくとも、自然にこれをやっている)、イメージは、あらかじめ頭で考えてから描くのではなく、描きながら考えつくものだ。もっと言うなら、描くことは、それじたいが形を変えた思考なのだ。鳥はさえずるとき、歌を喉で“考え”ている、それと同じだ。

 クレーはもう一ついい喩え方をしている。いわく、アーティストは木で、経験という豊かな堆肥から――見たり、読んだり、聞いたり、夢に見たものから――養分を得て、葉や花や実をつける。その園芸理論でいくならば、アートは何かを元に別の何かを作りだすことしかできないし、アーティストは一から何かを創るのではなく、ただ形を変えているだけということになる。だからといって、その作業は楽でも単純でもない。良い絵は地道な努力の上にこそ成り立つ、というのが僕の持論だ。

(後略)

 

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