軽視しているわけではないのに

 

雨のち晴れ。22度。嵐が去った。

8時に起きる。

朝餉は、レタスとトマトのサラダ、さつま揚げと目玉焼き、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、わかめ、ネギ)、トースト、アールグレイ、コーヒー、クランチチョコレート。

フランスのジャーナリストであるアガト・メリナンさんに尋ねてみたいのだ――。

その文章『沈黙の作曲家』は力作だ。困惑しつつも、メリナンさんには書くべきことについて、ある種の確信があった。にもかかわらず、それはいっこうに焦点を結ばない。それはメリナンさんのせいではないというのに。

歯がゆい思いから逃れられない。そのこと自体を正直に吐露しようとした。だから、エリック・サティはそこに居るように思える文章が書けた。でも、エリック・サティはやっぱりどこにも居ないのだ。

きっと、そういう思いを抱いていた。

エリック・サティほど、人らしい人はいない。異端とか変人といった言葉で表現することは、どこかで天に唾することに違いない。そのことをずっと感じながら、文章を書いていた。そうではないですか、メリナンさん? 

昼餉は、焼きそば、味噌汁(人参、玉ねぎ、揚げ)、おにぎり、ミルク。

 

エリック・サティ--“沈黙”の作曲家

Agathe Mélinand

翻訳:村松恭平、谷 明子、沖田夏弥

 

エリック・サティ(1866~1925年)なる人物を語るのは厄介な作業だ。彼の人となりを理解するのは難しい。彼は抵抗し、冗談を言い、あなたに背を向け、そしていつもアルクイユ[パリ南部の都市]へと帰ってゆく。誰もそこに入ることを許されなかったみすぼらしい部屋に彼は閉じこもっていた。彼について言及するのは非常に困難な挑戦だ。一体どのサティについて語ればよいのだろうか? ビロードの服を着た革命家の青年? その人生の最後には公証人のような[黒い]服を身にまとったサティ? サン・ジェルマンの町外れにあったノアイユ家にいつも歩いて通っていたサティ? あるいは、アルクイユで「飲んだくれ、溝にはまって寝ていた」サティ? キャバレー「シャ・ノワール(黒猫)」で演奏していたピアニスト? アルクイユ=カシャン青少年クラブで活動していたサティ? それから、彼が描いたデッサンもあれば、著作も存在している。840回続けて[同じフレーズを]反復する『ヴェクサシオン』もある。彼は言う。「この主題を演奏するためには、あらかじめ心構えをしておくのがよいでしょう。大いなる沈黙の中で、身動きせず静粛に」。『ヴェクサシオン』は15時間に及ぶ曲だ。ジョン・ケージと他の9名のピアニストたちが、1963年にはじめてこの曲を演奏した。

 それから? 突飛な内容の彼の講演録や、音楽について論じた彼の新聞記事、格言、怒りの叫び、詩、そして彼のさまざまな主張を引き合いに出すべきだろうか? 彼が所属したアルクイユにある共産党の第一支部について話さなければならないのだろうか? かの有名な『グノシエンヌ』と『ジムノペディ』についてのみ語るべきか? それらの作品は多種多様な彼の音楽をいくばくか見えなくしてしまう。ジャン・コクトー、モーリス・ラヴェル、ルネ・クレール、あるいはピカソ ―― 誰が語るサティについて話さなければならないのだろうか? 画家で、かつては空中ぶらんこ乗りでもあったシュザンヌ・ヴァラドンの束の間の恋人だったサティについて? クロード・ドビュッシーの大切な友人だったサティについて? ドビュッシーは彼にコトレットを作ってあげていた。サティの貧困生活や神秘主義についても話さなければならないのだろうか?「導きのイエスの芸術首都教会」のこの創設者を賞賛しなければならないのだろうか? 幸いにも、彼だけがこの教会の司祭であり、唯一の信徒であった。あるいは、水道も電気もなかったアルクイユの部屋にいる彼に寄り添うべきだろうか? サティはそこで28年もの間、特に蚊に悩まされながら暮らしていた。

(後略)

 

5月17日に書こうと思って忘れていた。1866年のその日、エリック・サティはフランスに生まれている。

夕方に女房と家を出て、クルマで東京へ。

夕餉は、サービスエリアで菓子パンとフルーツミルク。女房は二色そぼろ弁当。

400キロのうち僕が運転したのは100キロほど。女房は睡魔と戦い、頑張った。家に帰ったのは夜中を過ぎていた。

 

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