そんなロマンチックな……

 

 

 

 

 

 

曇り、ときどき日差し。19度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・柿、サラダ(レタス・サニーレタス・大根・大豆煮・カニカマ・チーズ・バジル)、味噌汁(小松菜・サツマイモ・油揚げ・豆腐・玉葱・人参)、リンゴジャムのトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。

妻と公園の朝市へ。ほんの1時間ほど遅くに出かけたら、ほとんどが売り切れだった。歩いていると背中を汗が伝う。

昼餉は、菓子パン、ミルクティー。公園のベンチで。イチョウの木から銀杏がびっくりするくらい落ちている。拾い集めて持ち帰りたいね、妻と話す。カツラの木も紅葉まっさかり。

古書を求める。武満徹著『時間の園丁』(新潮社)。宇佐美圭司さんの装画が武満さんの文章に呼応して響いている。ここの文章「私たちの耳は聞こえているか」より抜粋――

 

 二月、サンフランシスコの小さな書店で、詩人チャールズ・シミックの『雑貨屋の錬金術』――Dime-Store Alchemy――という、(前にこの欄でも書いたことがある)今世紀アメリカの特異な造形作家、ジョセフ・コーネルに関する、評伝とも分析ともつかぬ、不思議な、詩的感興に溢れた本を見つけた。内容は、コーネルのあの木箱の作品から喚起された、詩的箴言とでも呼んだらいいようなものだが、対象がコーネルということもあって、抑えた筆致で、しかも、気品あるユーモアに満ちたユニークな作家論になっている。

 ジョセフ・コーネルは、その六十九年の生涯を、殆ど、ニューヨーク州から外に出ることなく過ごした。住居がある、ロングアイランドのユートピア・パークウェイと、マンハッタンの間の、きわめて限定された空間の中からあの豊穣なイメージが産み出されたことには、たんなる驚き以上のものを感じる。芸術家のヴィジョンや想像力というものは、かならずしも、蓄積された知識等とは関係ないものなのかもしれない。

 そういえば、コーネルが愛した詩人、エミリー・ディッキンソンも、生涯、彼女の住居から出ることなく、隠棲にも似た孤独な生活のなかで、あの豊かな詩的イメージを言葉にした。

 それに較べて、今日の私たちの生活は、無制限に送られてくる人工的な情報を受け容れることに多忙で、それを咀嚼することにさえ膿んでいる。私たちは、いま、個々の想像力が自発的に活動することが出来難いような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、このまま、退化へ向かってしまうのではないか、という危惧すら感じる。

 

30年前の文章なのでナイーブな危惧感は仕方ない。昔も今も、情報は一方的に送られてくることに変わりはない。それを受け取らないことは至極簡単でさえある。そのことと自らの想像力の発露はおなじ地平を共有してはいない。武満さんの危惧はロマンチックで微笑ましい。情報のほとんどは偽りで、僕らはもっと深刻な危惧を抱えるに至った。偽物をせっせと作り出しているAIに、真贋を判断させることくらいしかできない。僕らは、情報の多くを遮断して暮らしているか、それを楽しんで暇を持て余してさえいる。それらが眉唾とわかっている。事態は深刻だが、それに抗う力を僕らは身につけている。そのことを悲観視するのは、今風のロマンチシズムかと思う。もはや、そんなことで嘆いたりはしないのだ。

妻が食材を取り寄せて作った夕餉は、キャベツと人参の中華風スープ、ナスやベリーリーフ・ミニトマトを添えた唐揚げ油淋鶏、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後に歌舞伎揚、紅茶。