晴れ。21度。
7時に起きる。
朝餉は、ヨーグルトと蜂蜜をかけたリンゴとバナナ、ひよこ豆・キャベツ・大根・カニカマ・ゴーダチーズのサラダ、味噌汁(小松菜・モヤシ・玉葱・人参・大根・キャベツ・油揚げ・豆腐)、ハムと玉葱のチーズトースト、アールグレイ。食後にクリームケーキ、チャイティー。
どんな子どもでも、家の懐具合はわかっているものだ。あれが欲しい、とは言わない。これを買ってくれとは言えない。そもそも、欲しいという気持ちがない。
そういう気持ちがあることは、ずっとあとになってから知る。それがどんな衝動なのか、なぜ知らなかったのか。それはわからない。
強いていえば、親の生き方を肌身に感じているうちに、自分というものがどこかへ消えてしまう。親さえ明るく生きておればそれでいい。どこかでそう思い定めている。
自分は添え物にすぎない。
それは卑屈ということでは決してない。暮らしの主人公は、親なのだとわかっている。親よりはるかに強く、家の安寧を願っているかもしれない。
それが貧乏な家の子どもというものだ。
昔は、多かれ少なかれそうだったのだ。
今はどうだろう。貧乏な家の子どもは、親を見ているだろうか。
昼餉は、いつもの公園のベンチで妻とおにぎり、お茶。公園のコブシもハクモクレンも花はなく。
昔だって、貧乏は恥じることだった。どこかで理不尽であると幼心に思わなかったはずはない。それでも貧乏は珍しいものではなかった。服は継当てだらけで、靴はそこが抜けていた。鼻水を拭った袖口は固まっていたものだ。
近所の貧乏模様を子どもはちゃんとわかっている。それでも親の顔が翳りばかりでないことがわかれば、子どもはなんとかやっていけたものだ。
夕餉は、納豆、サツマイモ・レンコン・玉葱・人参のかき揚げ、ピーマンの肉詰め、味噌汁(キャベツ・大根・玉葱・人参・小松菜・油揚げ・豆腐)、玄米ごはん、赤ワイン。食後に歌舞伎揚げ。
街に貧乏な子どもを見かけなくなった。そういう子はかならずいるものだ。親の介護にいそがしいか。ちゃんと食べているのか。
親が頼りにならない。そのことをどうやって飲みこんでいるのか。