そこの場所ならではの

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。28度。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツを添えた目玉焼き・ハム、味噌汁(カボチャ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐・ネギ)、バタートースト、豆乳。食後にコーヒー。

 

カプシチンスキ著『黒檀』より抜粋――

 

 キリスト教、イスラム教の双方ともがまだ根を下ろしていなかった当時、赤ん坊の名前の選択肢は無限だった。夜明け時に生まれた子であれば〈爽やかな朝〉、お産の場所がアカシアの木陰であれば、そのまま〈アカシアの木陰〉と、親たちの詩情が籠められた。文字のない社会で、子どもの命名によって、原罪または過去の歴史における重要な出来事を記録することにも繋がった。タンガニイカの独立時の生まれなら、その子には〈独立(ウフル)〉の名がついた。両親がニエレレ大統領の熱烈な支持者だとすれば、愛児にニエレレと名付けるかもしれない。

 こうして、強力な(というのも、極めて個人的な)自己同定というレベルを用いた、何世紀にも亘る口頭伝承の歴史が成立した。(中略)

 キリスト教やイスラム教の導入の結果、詩情と歴史感覚の満開した命名法は廃れ果て、聖書やコーランに登場する数十の人名ばかりに限定された。以後、ジェームズとかパトリック、アフメドとかイブラヒムが、氾濫することとなる。

 

ここに記されたアフリカの人名の変遷は興味深い。文字のない社会とカプシチンスキは言い切るが、日本の命名は今も同じように生きている。要は、外からやってきた宗教に侵されている度合いに依るのだろう。

この国では、もはや読み方さえわからない名が幅をきかせている。だが、聖人君主のリストから選ぶような息苦しさとは無縁だ。

勝手気ままな名が氾濫していることと、決められたリストから選ぶこと――当たり前のことだが、世の中は気まぐれだ。

 

ジョギング、10.13キロメートル。

夕餉は、サツマイモの甘煮、ナス・ピーマン・万願寺とうがらし・竹輪の中華炒め、妻の買ってきたコロッケ、焼き鯖、味噌汁(玉葱・人参・油揚げ・豆腐・ネギ)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後にアイスクリーム。

土地や気候、人との関わりの記憶が名に残っている。それは至極まともなことだろう。割り込んできた宗教に口出しさせないのは、それが新参者だという認識がしっかりあることのあらわれだ。そして、健全性のあらわれだと思いたい。