晴れ、のち雨。18度。
7時に起きる。
朝餉は、ほうれん草の白和え、味噌汁(人参・玉ねぎ・キャベツ・小松菜・油揚げ・豆腐)、トースト。食後にコーヒー、クッキー。
パイプにアーロンテープをいくら巻き締めても、洗面台の水漏れが止まらない。
そこじゃない、どこかから声がする。
家族が父を囲んで見送れなかったことを、父はどう思っただろう。
一人で死ぬ間際に去来したこと。その瞳が見ていたこと。コロナという言葉を理解できず、家族がそばにいないことをどう受け止めていたか。
そろそろというときになっても、病院から連絡はなかった。
腑に落ちないことを言葉にするのは忌まわしい。
僕は、そう思ってきた。でも相変わらず、ぼんやり考えている。
一方で、死はそんなものだ、とも思っている。
答えがほしいのではない。
背負いきれない物事は、置き去ってもいいだろうか。
迷っているのではない。
どうせ、置き去るのだ。
赦しを得ようとしているのではない。
ただ、同じことを考え続けている。それだけだ。
昼餉は、妻の作ったカレーライス、コーヒー。
静かに春雨。
本を読んでいると、指先が冷たくなっていく。首筋の動脈のあたりで暖める。本を持つ手を代えて、交互に手を這わせる。
夕餉は、味噌汁(人参・玉ねぎ・キャベツ・シメジ・カニカマ・豆腐・油揚げ)、カレーライスの残り、梅酒。食後にコーヒー。
首筋にひんやりと。その手は、誰のものか。
気負いのない、一筆書きのような料理が作りたいと願ってきた。能書きのない、普通の一皿、どこにでもありそうな一碗、食べ終わったことにさえ気づかない煮物。そんな料理は、小さな台所で十分だが。
なぜか大きな台所を求めている。
目の前にあることが、すべてなのだから。
すべてがこぢんまりとしていて、バタバタしていない。そういう身の回りを作るには、静かにならねばと思い、まずは聞き耳を立てて。
ぼんやり考えていることは、ぼんやりではない。
でも、ぼんやりのままでいい。