エステートにおもう


雨、のち晴れ。じりじりと気温があがり真夏日の一歩手前まで。
昼に着替えて、九キロをジョグ。
女房に買ってもらった真新しいTシャツが汗を吸って重くなっていく。えっさえっさという感じで走る。
夕方に女房と食材を買い出しへ。
代車のボルボ850に乗っていてあれこれと考えた。十四万キロをあとにしたルージュレッドのエステートは2.5リッターで、いまとなっては何から何まで古臭い意匠をまとっている。革のシートもくたびれていて、あっちこっちからガタ、ピシと音が出る。非力なのと、それほど遮音材も奢られていないのと、変速機も限界に近づいているのと(だからそれなりにショックがあって)、つまるところ総じてうるさくていちいち疲れていると訴えてくるのだ。
がしかし、それらがすべて合わさると、あぁ、なんということだろう、まごう事なき善きクルマとなるのだ。ディーラーのメカニックたちが手慰みに修理して、それなりに大事に乗ってきただろう時代遅れの機械が、なんとか動いている。それだけで、なんだか落ち着くんだ。誰の愛着もたぶんかけられていない。ただの移動機械としての能力さえそんなに期待されていない。見方によってはいちばんピュアな機械として、その能力だけ求められ、それになんとか応えてきた。その「やっと」感が漂っている。
そんな機械に凄みがもしあるとしたら、このボルボにはそれがたしかにあるんだろう。よくできた機械がしっかり動いているわけではなくて、それなりの機械がそれなりに動いている。それなりということの尊さ。期待され、求められ、少しは気張ってきた。そんな昔などとは縁遠いのに、いやだからこそ、十四万キロをあとにした今だからこそ、機械として正常に動いていることへの静かな凄みが湧いてくる。経てみなければわからない、あれやこれやを身に纏っているのだった。
僕も、願うことならそんな存在でありたい。