出どころの異なる声

 

 

 

 

 

 

晴れ。9度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(キャベツ・大根・大豆煮・カニカマ・バジル)、味噌汁(シメジ・ネギ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、菓子パン、アールグレイ。食後にコーヒー。

ターミナル駅のデパートで菓子を求める。妻と虎ノ門へ。ちょっとした挨拶に。すぐ辞去して帰る。

車窓の外に広がる景色が眩しい。隣で妻が船を漕いでいる。こういう午後がずっと続くことはないのだと思いながら。

昼餉は、虎ノ門で温かい蕎麦。

いつ終わるともしれない旅は、きっと思っているより早くに途絶える。僕らは、途絶えてからはじめて、その短さに驚くに違いない。

妻の隣に老婆が座り、その友人が前に立って二人が話し始める。ほんと、今年は早かったわね、あっという間で……。怖いくらいね、ほんと。そんな感じの会話を聞きながら、今年はほんとにそうだったなと思う。

おみくじを引けば大安で、九星も良い一年だと年初にあった。そのとおりに、大過なく過ごせたと言えるだろうか。そういうものは当てにならない、と若い頃から思ってきた。今も、そう信じているのに、読むたびにあれこれ思う。

信じているものがあるとするなら、それは身体からの声だろう。動きたくないと脳みそが訴えても、汗をかけば気持ちが変わる。考えていたことは、どこかへ消えている。身体を動かすことは、身体で考えることだ。司っているのは身体のほうで、脳は仕えているに過ぎない。その順位を僕らはかならずといっていいほど間違える。それがどんな災禍を招くことか。

僕らの教育は、もっとも大切なことを子どもたちに教えていない。脳からの声がいじめをする。いびつなその声は、身体とは無縁の声で、だがその声に従う身体は、ひどい仕打ちを仕掛ける。身体からの声は、決してそういう仕打ちをいきなりはじめたりしないものだ。

夕餉は、味噌汁(シメジ・ネギ・人参・サツマイモ・油揚げ・豆腐)、人参のグラッセとフレンチフライを添えたハンバーグの残り、中華丼、ウィスキー・オンザロック。