濱口竜介という手法

 

 

 

 

 

 

大雪の土地から、空っ風の青空へ。7度。

5時半に起きる。積雪は10センチほど。

Macと身の回りのものをバックパックに詰めて駅へ。散歩と言い訳して、妻が見送りに。

6時半の電車で東海道線を名古屋へ。8時半の高速バスで東京駅まで。

浜松で妻の作ってくれた卵サンドとバナナ。

頂上から雪煙を巻き上げている富士山が美しい。

午後遅くに自宅に着いた。暖かいはずなのに、底冷えがする。

夕餉は、レーズンロールパン、いなり寿司、ウィスキー。そのほか、口に入るものを片っ端に。

映画は、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』。アカデミー賞4部門にノミネートされている。3時間の大作。原作とほかの短編をいくつか足して、それを大きく膨らませた脚本も監督が書いている。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を演じる主人公たちと、彼や運転手の女の実際の人生とが重なり合う。

手話を中心にした舞台の最後のシーンが、主人公たちの人生と混じり合う。一つひとつのセリフが(とは言っても手話なのだが)、やがて僕らの人生をも覆い、混じり合って複雑な綾織となる。

直截なテーマを追った演出なのだが、説教くささがない。恥ずかしげもなく、迫ってくるようにテーマが受け取れるのは2時間以上もかけて積み上げてきた演出の技かもしれない。

『ワーニャ伯父さん』を読んだだけでは、チェーホフの真意は伝わらないかもしれない。映画で伝わったきたのはチェーホフの真意とは限らない。だが、監督の脚本はチェーホフの力を借りている。そのことを表明している。それに、これは逆かもしれないが、村上春樹の短編をベースにしているとは思えない。触発されたかもしれないが、別物だ。僕の記憶のうちでは、『ドライブ・マイ・カー』は短編集にあってそれほど出来の良い方ではなかった(というよりほとんど忘れているのだが)。村上春樹という器を借りて、中にはチェーホフが入っている。

3時間という映画、セリフが他言語(ほとんどがアジア圏)、派手な演出はなく、テーマは限りなく古典的で(だから普遍的なのだが)、よくもまあアカデミーが候補に入れたと思う。誰もがそう感じるくらい、この映画の異質さは残るだろう。

賞を取っても取らなくても、どうでも良いやと思った。これは褒め言葉だ。

濱口竜介という監督は、商業ベースでは成功できないかもしれない。でも、彼は映画を信じている。

 

 

 

 

 

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