封印と狼狽

 

晴れ、のち曇り。17度。

7時に起きる。たっぷり寝ているのに眠い。

朝餉は、キュウリと竹輪の酢の物、金時豆煮、サーモンの刺身、キャベツとネギの卵とじ、ラム肉の野菜炒め、味噌汁(ジャガイモ・大根・玉ねぎ・人参・三つ葉・豆腐)、大根の漬物、柿・ブドウ・リンゴのヨーグルト掛け、番茶。

僕らは、人生の多くを休養に当てる。前へ進むには、休まなければならない。体はもちろんだが、脳や心にも必要だ。夢を見て、さまざまに取捨選択をし、そして、忘れ去ることにしっかり封印をする。

覚えていることより、実は、封印したことに面白みがある。封印のやり方はどうであれ、それは何かの拍子に現れることもあるし、別の事柄に紐づけられてずっと顕在化していることもある。

どちらにしても、本人ははっきり自覚しないままでいる。急に現れた物事は、脈絡も関連もないように見える。だから、僕らはびっくりしてしまい、我を失って狼狽する。

僕らがいくつになってもうろたえるのは、そこに封印のエキスが詰まっているからだ。

昼餉は、朝食の余り物に焼いた鶏肉、ご飯、番茶。

うろたえることで、僕らは、封印というものの存在を知る。どこか深くに、それは押し込められ埋められている。力づくで掘り起こすのは分析医に任せるにして、僕らはその存在に無頓着に生き続ける。

それがいいのだ、と思う。

封印とか、狼狽とか――そんなことはどうでもいいのだ。脳は、そうやって自らの存在を僕らに知らしめようとする。それが脳の習い性というものだ。僕らは、脳のされるがままではない。その逆の行動をとったときに得られる幸福感や達成感だってあるのだ。

うろたえるのは、誰も好まない。それは、脳がそう仕組んだうえで、うろたえさせるように働いているのだ。

禅は、その呪縛から己を解き放つ方法のひとつだけれど、禅を学ばなくとも、僕ら一人ひとりはその方法を身につけている。ただ、気づいていないだけのことだ。

夕餉は、バターと蜂蜜を塗ったトースト、ミルク。