皿と料理

 

曇り。26度。

8時に起きる。

朝餉は、バナナとヨーグルトのジュース、レタスとキャベツ、玉葱、パプリカ、コーンのサラダ、味噌汁(人参、サツマイモ、玉葱、豆腐、小松菜、エノキ)、さつま揚げとスクランブルエッグ、トースト、紅茶。

テレビのワイドショーで、ナチズムの台頭と憲法改正の歴史を紐解いている。それを現政権と対比させようという腹積もりだ。憲法改正という事象を符丁にした、ちょっと安易な試みだ。民主的手続きを踏んだにもかかわらず、ナチズムはそこから生まれた。翻って、今の内外の政治状況はどうだろう。

背景はまったく違うし、この国の態様も当時のドイツとはまったく違う。

違うということが、だが、何かを担保したことにならないのは、当の歴史が教えてくれている。中間の調査によれば、参議院選挙で与党は見込みを超えそうな勢いだという。だが、改憲に必要な議席の確保は厳しいらしい。

改憲の是非を問うのは、圧倒的多数を確保してからというアプローチを危険視する国民は少なからずいる。改憲の意味を質すのだとしたら、順番は逆かもしれない。その意味の妥当性が明らかになってから、必要議席の獲得に乗り出すという手順のほうが開明のように見える。民主主義の核は「果てることのない議論」とそれを支える「開明」だが、その後ろ盾は多勢にあるのではない。むしろ、無勢にこそある。

昼餉は、抜き。

13キロをジョグ。滝の汗。

無勢は、面倒臭い。げんなりする。またか、と思う。

だが、悲しむべきかな、それこそが民主主義である。それとは真逆のイデオロギー政治を見たければ、隣の大国というわかりやすい例がある。僕らは、めんどくさいにしろ、「果てることのない議論」ができるプロシージャを「開明」として後生大事にすべきなのだろう。

ウィンブルドンの準決勝が終わってから、ノバク・ジョコビッチが記者会見で語ったそうである。

「テニスには引き分けがない。どちらか一方が必ず勝ち、もう一方は必ず負ける。テニスは、そういうスポーツなんだ」と。だから、一歩も譲らない二人が5時間もかける。見ている方もクタクタになっていることが中継の画面から伝わってくる。そこまでやるのか、と感じる。

そこまでやるのかではなく、そこまでやれることが「開明」なのだと、果てることのない時間から人々は学ぶのだと思う。そういう意味では、最終セットで12ゲームまで戦ったのち勝敗がつかなければ7ポイント先取のタイブレークへ移行するという二階建てのルールは、「開明」を煙に巻こうとしているようにも見える。今年からそういうルールになったそうだが、僕は腑に落ちない。

夕餉は、焼き茄子、豚バラと野菜のポン酢炒め、味噌汁(人参、玉葱、サツマイモ、小松菜、豆腐、エノキ)、玄米ご飯。食後にアイスコーヒー、パイ。

現政権にもし胡散臭いものを感じるとしたら、プロシージャとその中身の議論を渾然一体にしようとしている、その姿勢にあるのだと思う。多勢の威を借りて議論を突破するというのは、そういうことだ。

プロシージャと議論の趨勢を分ける。それが「開明」ということだと思う。

 

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