ティム・ペイジの言葉たち

 

 

 

 

 

 

曇り、ぱらつく。9度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(大根・キャベツ・サニーレタス・ツナ・カニカマ・バジル)、味噌汁(大根・玉葱・人参・油揚げ・豆腐・シメジ)、クロワッサン、アールグレイ。食後にコーヒー。

NHKの将棋と囲碁トーナメント。井山裕太王座の強さは、打ち手が緩まないことに尽きる。姿勢が最初から最後まで変わらない。終盤に大石を奪おうとしておそいかかる。並大抵の棋士であれば、よしっと意気込んでそれがどこかにあらわれるのに、井山さんには変化が見られない。ふわっと襲いかかってふわっと奪っていく。田中康湧4段が頭を下げて、勝負は突然に終わった。

グールドの著作集よりティム・ペイジのまえがきから抜粋――

 

 グールドの文章はそのピアノ解釈同様、明快で、因習に囚われず、ときに激越である。それらは二十三歳の性急な若書きである「十二音主義者のジレンマ」から、名手の風格を備えた「レコーディングの将来」(たぶんグールド畢生の大論文)を経て、死ぬまでの十年間に《ピアノ・クォータリー》誌に寄せたさまざまの小編にいたる。かれの文体は不揃いである。最悪の場合はひとりよがりで、いたずら好きで、過度に思わせぶりが多い。しかし、けっして少なくはないすぐれた文章では、たとえばストコフスキーのプロフィールやライナー・ノートのいくつかに見えるように、ハネカー、ヘンダーソン、トムソンの全盛期以来音楽批評に多くの場合欠けていた、ある種の認識力と活力を示している。重要な批評家がすべてそうであるように、グールドも非正統的な意見を憚ることなく吐露した。また同時代の音楽学が奉持する教条の復唱で軽々に満足することはなかった。多様な思考をためらわず愛したグールドは、ピアノのキイよりもタイプライターのキイで表現する方がぴったりくる思考の存在を感じとっていた。

 グールドがメディアとしてのレコーディングについて書いたものはひじょうな論争を引き起こした。レコーディングというメディアをそれ自体目的として使った最初の演奏家の一人として、かれはコンサートという制度は死に瀕していると宣言し、たくさんの興奮した反論を呼んだ。だが、少なくとも一面で、グールドは正しかった。結局、ベートーベンの交響曲、モーツァルトのピアノ・ソナタ、そしてバッハの協奏曲を、リサイタル会場に足を運ぶより家庭で聴く人の方が多くなった。とくにLP盤の時代に育った人たちにとっては、作曲家と作品、演奏者によるその再創造に出会う可能性がもっとも高く、経済的な媒体として、レコードはたしかになまのコンサートに代わった。あらゆる可能性のなかで最善の世界であるかどうかはいざ知らず、これがわれわれが住む世界であり、凶報を伝える人であるとグールドを責めても勝ち目はない。

 

愛惜のこもった文章。そして、名文。

昼餉は、菓子パン、コーヒー、煎餅。

酒を求める。Teacher’sの『HighLand Cream』。800円台の値札を棚に見つけて。たまにはArdmoreのLegacyでもと思わないではない。Creamのキーモルトはさぞ旨かろう。シングルモルトを飲んだ日には胃がびっくりしかねない。

サントリーはキーモルトの比率を落としていそう。一方でグレーンのトウモロコシを何食わぬ顔で増やす。やりかねない、と思う諸兄は存外多いのでは。

夕餉は、マカロニサラダ、おでん、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後に煎餅、コーヒー。