そして、神は沈黙へと向かう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。25度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ・リンゴ、サラダ(レタス・キャベツ・大豆煮・ミニトマト・カニカマ・バジル)、もやしのポン酢ソテーを添えた目玉焼き・ウィンナー、味噌汁(カボチャ・玉葱・人参・しめじ・油揚げ・豆腐)、トースト。食後にコーヒー。

『神々の沈黙』より――

 

 真の〈二分心〉時代には、幻聴には視覚的な要素がつきものだった。幻視そのものが起きる場合もあれば、人が面と向かって耳を傾ける像がそうした要素となる場合もあった。視覚的要素のありようと、それがかかわってくる頻度は文化ごとに異なっており、それは幻覚作用のある像を持つ文化と持たぬ文化があることからもわかる。

 年代的にじつに多様な起源を持つことだけからでも、モーセ五書が視覚的要素の喪失を一貫して継続的に描き出している事実には驚かされる。最初、「あるという者」は目に見える肉体を持った存在で、被造物の生き写しだ。彼は涼しい時間にエデンの園を散歩し、自らが創り出したばかりのアダムに話しかける。カインとアベルが捧げ物をしたとき、「あるという者」はその場にいて目で見ることのできる存在だった。ノアの箱舟の扉をその手で閉め、シケムやベデルやへブロンでアブラハムと話し合い、ヤコブとチンピラよろしく一晩中格闘する。

 だが、モーセの時代になると視覚的要素の性質は一変している。「あるという者」が、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」のは一回だけだ。モーセと七〇人の長老たち全員が、彼方のサファイアのような敷石の上に立つ「あるという者」を見るという集団幻覚の場面がもう一度だけある。だが、それ以外では、幻覚の中での「あるという者」との出会いの場面に以前ほどの親密さは見られない。「あるという者」は燃える柴、雲、あるいは巨大な炎の柱となって姿を現す。そして〈二分心〉の視覚的な経験が濃い闇の中へ後退するとき、雷鳴と稲妻と立ちこめる黒雲が近寄りがたいシナイ山の頂に集まり、私たちは旧約聖書全体を通じて最も偉大な教えに近づいていく。すなわち、エロヒムのうちの最後のものが幻覚作用を起こす力を失い、残り少ない半〈二分心〉の人間の神経組織の中だけにある余人には聞こえ難い声でなくなり、石板に書かれた文字に変わるとき、彼は律法という不変のものと化し、誰でも近づくことができるもの、王にもヒツジ飼いにも、万人に平等にかかわるもの、普遍的で超越的なものとなる。

 

昼餉は抜き。

『神々の沈黙』の続き――

 

 モーセ自身は、光り輝くとされるものから顔を隠して、この視覚的性質の喪失に反応する。それ以外にも、モーセの〈二分心〉の声そのものがモーセに向かい、視覚的な幻覚の要素の喪失を次のように語って合理化する。「人はわたしを見て、なお生きていることはできない……わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」。

(中略)

 モーセ五書の後、〈二分心〉の声はさらに稀になる。「申命記」の記述者は、モーセのように「『あるという者』が顔と顔を合わせる」預言者はもはやいないと語るが、これは〈二分心〉の喪失を意味している。声は以前のように頻繁に聞こえることはなくなり、対話の形式は失われていく。ヨシュアは声と対話するよりも、一方的に語りかけられることの方が多い。そして彼は〈二分心〉と主観のはざまにあるので、決定を下すために占いに頼らなくてはならない。

 

『神々の沈黙』において、この部分がもっとも特徴的な、神の声(意識が芽生える以前の内なる声のこと)から意識への変化を考察した部分かと思う。

給湯器の交換に業者が訪う。風呂場とキッチンの操作パネルを含めた交換に4時間ほど。意外に手こずった。

夕餉は、中華料理屋でチャーハンと中華そば、妻はカタ焼きそば。