勘所の表明について

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。25度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたリンゴ・バナナ、キャベツ・大根・大豆・レタス・バジルのサラダ、味噌汁(ジャガイモ・小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、ハム・チーズ・玉葱のピザトースト、アールグレイ。

妻は、クワイアの稽古へ。夜遅くに戻る。

ジョギング、8.05キロメートル。ピッチをあげる。それでも、遅いは遅いなりのピッチ。

そこここにアヤメ。湿った影場所にカキツバタがちらほらと。梅雨までひと月ほど。もうそんな季節になったかと。

大友良英さんのFMラジオで、アーマッド・ジャマルが先月16日に他界していたことを知る。大友さんは「Secret Love」と「I Love Music」をかけてくれた。どちらも素敵な演奏。92歳だったとか。大往生はジャマルらしい、となぜか思う。

大友さんの目のつけどころは、人それぞれの勘所をわかりやすく表明してくれる。味わうことは、それぞれの勘所の表明でもある。音楽におけるそれは、たとえばその曲の2分23秒あたりのドラムロールにゾクっとくる、というような表明もできるけれど、そのゾクっという現象については常に曖昧だ。

2分23秒あたりは、具象化への試みの最右翼と言えるだろうか。それが僕はいつも気になる。

昼餉は、ブルーベリーの食パン、ミルク、ザクロ酢ジュース。

アニー・エルノー著『事件』より抜粋――

 

 一週間後、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。でも、それは、もはやわたしの興味を引く出来事ではなかった。

 

 続く数カ月はぼんやりした光にひたされている。しょっちゅう街を歩いていた自分の姿が思い浮かぶ。その時期のことを考えるたびに、“仮象の横断”、“善悪の彼岸”、さらには、”夜の果ての旅”といった文学的表現が頭に浮かんでくる。それはいつも、当時わたしが生き、感じていたもの、言葉では言い表わしがたい、ある種の美を備えた何ものかに対応しているように思えた。

 

 何年ものあいだ、わたしは人生のその出来事のまわりをめぐっている。小説のなかに妊娠中絶の話が出てくれば、その瞬間、言葉が荒々しい感覚に変じてしまったかのように、イメージも思考もできない衝撃のなかに沈みこんでいく。同じように、”ジャワの娘、わたしの思い出は薄れゆく”とか、何であれ、その当時いつも聞いていたシャンソンをたまたま耳にすると、心が乱れてしまう。

 

 この話を書きはじめて一週間たつが、この先続けられるのかどうか、まったく確信がない。ただ、あのことを書きたいという欲求を確かめたかっただけなのだ。この二年来取り組んだいる作品を書いている際にも、たえずわたしを貫いていた欲求を。どうしてもそれを考えてしまうことに、わたしは抗っていた。それに没頭してしまうことが怖かった。でも――わたしは自分に言い聞かせていた――あの出来事について何も書かずに死ぬこともできる。そうしてしまうのは、おそらくあやまちだろう。ある晩、夢を見た。自分の中絶に関して書き上げた本を手に持っているのだけれど、それは書店のどこにも見あたらず、どのカタログにも載っていない。表紙カバーの下の方に、大きな活字で“絶版”と記されている。その夢の意味が、その本を書かねばならないということなのか、書いても無駄だということなのかはわからなかった。

 

フランスにおける中絶合法化の前に、エルノーは中絶へ至る状況を味わっている。彼女の文章は文学的かどうかとは別に、自分的かどうかを常に問い続ける過程のうちに紡がれていく。

それが、文字表現における勘所の一つなのか。翻訳という外科手術は、文章という身体をどこまで保ち続けられるものだろうか。

彼女は去年のノーベル文学賞を受賞している。

夕餉は、納豆、きんぴらごぼう、生ヒジキの煮物、味噌汁(玉葱・人参・シメジ・油揚・豆腐・キャベツ)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。

Appleは、OS軍のパブリックベータ・プログラムを更新して、RCをリリースした。来週にも正式版が登場する。