見えていること、見えていないこと

 

 

 

 

 

 

 

 

雨、日中に薄日。11度。

8時に起きる。

朝餉は、キャベツ・大根・ツナのサラダ、イワシのパン粉揚げ、味噌汁(玉葱・人参・キャベツ・サツマイモ・油揚げ・豆腐・葱)、ご飯。食後にコーヒー。

工務店の社長に電話。昨日のプレゼンテーションを受けてのお断りと、そのワケを話した。

社長さんは、叩き台のつもりでしたが、と。誰もが、叩き台という言葉を使う。それは、とりあえずという意味で使われることのなんと多いことだろう。

でも、これだけはどうしても、という譲れない点があった。そのことを僕らは彼に話していた。叩き台を作るとっかかりは、そこだと思ったからだ。

建築業界は忙しいことだろう。クルマで走っていると妻が景色を見ながらよく口にする。人口が少なくなっているのに、どうしてこんなに新築ラッシュが続くんだろう、と。

僕らだってその中に入る可能性があるのに、妻は関係ないという顔をしている。家を建てようとしている誰もが、そう思っているのかもしれない。そうやって、ある種の狂いが生じていく。

家を建てる行為の真ん中にあるのは、コミュニケーションだと思う。それを支えている言葉や仕草の奥にあるのは、何を考えているのかとか、ものの見方や嗜好、人生やら社会への眼差し、地域や隣近所への想いといったことがないまぜになった心情だ。

家を建てることは、そういう物事にあらためて対峙することだと思う。

そうした心情の往還が、自分の中で幾度となく行われ、少しずつ見えてきたり逆に見えなくなったりする。専門家に会い、さまざまな人の話を聞き、また往還を繰り返すなかで家は建っていく。心情という広大な土地に建っていくのだと思う。

夕餉は、かぼちゃとベーコンのバターミルクスープ、豚バラの肉豆腐、ご飯、ウイスキーオンザロック。かりんとう。

設計図から読み取れることが山のようにある。設計図を見続けていると、たくさんのことがわかる。一方で、まったくわからなくなる。いざというとき、僕らがよすがとするのは先人の知恵しかない。昔の人が建てた家を見ることは、今の家を見るよりはるかに多くのことを教えてくれる。

なのに、僕らはモデルハウスへ足を運ぶ。たとえ数百年前の建物が目の前にあったとしても。

 

 

 

 

 

 

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