Amoroso

 

雨。21度。

7時に起きる。

朝餉は、味噌汁(人参、玉葱、小松菜、エノキ、豆腐)、BLTサンドイッチ、ミルク、紅茶。食後にコーヒー、パイ。

心地良い雨が降り続く。

7月の肌寒さと、ジルベルトの『Águas de Março』と『Estate』。彼のいない世界が、濡れている。

居ても立ってもいられなくなるとき。どこかに置き忘れたほうが正真の自分で、ここに居るのは、その写しのような抜け殻だと気づくことがある。一瞬のことで、その剥離状態はすぐ元に戻る。そして、どうしようもない抜け殻の感覚がポツンと残る。

彼の歌声が身に沁みるのは、そういうときだ。

昼餉は、全粒粉のスパゲッティでナポリタン。食後にコーヒーとクッキー。

瞳孔は、微細に動いている。その運動はマイクロサッカードと呼ばれているが、なぜ一点に留まらないのか実はあまりわかっていない。意識して一点を凝視しようとすると、なかなかできないことに気づく。というより、実は不可能ではないかと言われてもいる。それでもなんかとしてやってみると、視界が真っ白になってしまう。

いっときも休むことなく動いているのは、それの方が凝視するより全体をいっぺんに把握できるということらしい。めまぐるしく動くことで、すべての要素を同時に処理しているという言い方もできる。

僕らは凝視できない生き物なのだ。静止した瞬間に、情報処理が止まってしまう。相対的な差異によって外界は把握できる。

REM睡眠の特徴は、高速の眼球運動と言われる。夢を見ている証拠なのだが、この「夢を見る」という表現にこそサッカードの本質があると思う。見るとき、瞳孔は飛び回っている。

生物学的なことはさておき、僕らは本質的なことを本質的に理解するより、周縁を埋めていこうとする。好きな女の子を正面から見ようとせず、視界の端っこあたりに見ている。それのほうが深い印象をもたらす。対象は正面から攻めず、外縁を漁っているときに本質が見えてくる。

物事の本質は、すべてそのような気がしてならない。

神の存在を感じたいのなら、悪魔に手招きするのがいちばんかもしれない。神を神たらしめているのは、対極の存在である。

翻って、こう考えることもできる。我が身を抜け殻と見なすとき、それは彼の歌声を身近に引き寄せる術なのだと。

夕餉は、長芋のトロロ、オクラと干しエビ入り納豆、豚肉のオクラ巻き炒め、味噌汁(人参、玉葱、豆腐、揚げ)、玄米ご飯、麦茶。食後にコーヒー、パイ。

 

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